《変わらない恋心》

題しらす 読人しらす

ゆふつく夜さすやをかへの松のはのいつともわかぬこひもするかな

夕月夜さすや岡辺の松の葉のいつとも分かぬ恋もするかな (490)

「夕月がさす岡辺の松の葉のようにいつという区別もない恋をすることだなあ。」

「さすや」の「さす」は、四段活用の動詞「さす」の連体形で、「岡辺」を修飾する。「や」は、間投助詞で詠嘆を表す。「(分か)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「(いつと)も」「(恋)も」は、どちらも係助詞で強調を表す。「かな」は、詠嘆の終助詞。
夕月が岡の辺りにさしている。季節は秋である。しかし、岡に生えている松の葉は常緑であるから、色は変わらない。松の葉には季節がいつという区別がない。いつも変わることが無い。それと同じように、私はあなたをいつだって忘れることの無い恋をすることだなあ。
この歌は、恋一の歌の巻頭にあった「郭公なくや皐月の菖蒲草文目も知らぬ恋もするかな」と歌の構造が全く同じである。「名詞+動詞+や+名詞+の」(序詞)「・・・も+動詞+ぬ+恋+も+する+かな」違いは、〈季節が夏から秋になっている〉〈時刻が昼から夕暮れになっている〉〈植物が水辺の菖蒲草から岡辺の松の葉になっている〉〈精神状態が理性を失うから常に取り付かれるになっている〉などである。同じ方を使ったバリエーションである。ただし、この二つの歌を比べると、やはり「郭公」の歌の方が『古今和歌集』の恋の歌全体を象徴していて、巻頭に置くのにふさわしい。恋の苦しみだけでなく、皐月の菖蒲草が対照的に恋の華やかさを暗示しているからである。それに対して、松の葉は菖蒲草に比べて地味である。その分、恋の苦しみが際立たない。それゆえ、巻頭の歌にはなれなかった。これがこの歌がここに置かれている理由である。
この型に合わせて、いくらでもバリエーションができそうにも思える。ただし、単なるパロディになる虞れもある。二首が限界かもしれない。

コメント

  1. すいわ より:

    松の葉のようにいつまでも変わることなく恋したい続けるのだ、と言うのですね。
    夕月夜だからまだ暗くなる前の月。月の光が差すには暗さが足りない。だから「岡辺」と一段高いところに松を持ってきたのかしらと思いました。思いと時間とが比例するところを歌ったのでしょうけれど、巻頭の歌と比べると彩度に欠ける。聴覚に訴えるものもない。恋歌ならば墨絵のような印象でなく色を乗せた方が良いように思います。

    • 山川 信一 より:

      この歌は、巻頭の歌とペアであって、元より巻頭の歌に対抗するものではなく言い足りない内容を補っているようです。その内容とは、時間の経過による恋心の変化についてです。むしろ、敢えて「彩度に欠ける」「墨絵のような印象」を持たせたのでしょう。

      • すいわ より:

        なるほど、敢えての演出で巻頭の歌で表現しきれなかった部分(時間経過)をクローズアップしたのですね。だからこそ余分な情報を差っ引いてのこの歌。全ての歌で一つの作品となるよう編集にも工夫を凝らしていることが伺えますね。編集に当たった人達の歌集に対する熱い想いを感じさせられます。

        • 山川 信一 より:

          『古今和歌集』の味わいは、尽きることがありません。貫之を中心とする平安時代の知性が創り上げた歌集ですから。これからも読むのが楽しみですね。

  2. まりりん より:

    ということは、「郭公なくや・・」の歌を意識して詠んだわけですね。あるいは、同じ作者だったりして。。気がつきませんでしたが、このような所謂「パターン」は他にもありそうですね。いくつか「持ちパターン」をがあって、頭に浮かんだことを当てはめて素早く作歌することに利用したりしていたでしょうか。飛躍しすぎかな・・?
    当時の人はその場でささっと、しかもやっつけでなく素晴らしい歌を詠んでいて、人間業とは思えないのです。

    • 山川 信一 より:

      確かに『古今和歌集』には、発想の上にも表現の形にも歌の型がありますね。それに出会うと、ああ、『古今和歌集』らしいなあと思います。当時の歌人たちは、身に付けていたのでしょうね。
      それはそれとして、この歌と「郭公なくや」の歌を見ていると、「詠み人知らず」の歌は、貫之を始めとする編集スタッフが作ったような気もしてきます。まず構想があって、それにふさわしい哥を探し、時には作ったのでしょう。気の抜けない歌集です。

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