《雪間の若草》

かすかのまつりにまかれりける時に、物見にいてたりける女のもとに家をたつねてつかはせりける みふのたたみね

かすかののゆきまをわけておひいてくるくさのはつかにみえしきみはも (478)

春日野の雪間を分けて生ひ出で来る草のはつかに見えし君はも

「春日野の祭に行った時に、物見に出ていた女の元に家を訪ねて贈ってやった 壬生忠岑
春日野の雪間を分けて生えてきた草のようにわずかに見えた君はなあ。」

「春日野の雪間を分けて生ひ出で来る草のはつかに見えし」は、「君」に掛かる長い修飾語。「春日野の雪間を分けて生ひ出で来る草の」は、「はつかに」の序詞である。「はも」は、「は」も「も」も終助詞で強い詠嘆を表す。
二月になって、春日野神社ではお祭りが行われています。雪も溶け始めました。よく見ると、雪が消えたところを選んで生えてきた草がわずかに見えています。その草のようにわずかに見えたあなたは、私の心を捉えました。
男も女も春日神社の祭に出掛けたのは、見物だけが目的ではない。こうした恋のきっかけを求めているからだ。そして、期待通りに恋が始まった。男は、いい女に目を付ける。そして、女の家までついていき、歌を贈った。
歌では、雪間に生えた若草にたとえることで女を喜ばせている。若草は誰もが待ち望んでいた春の象徴であり、自分の心に恋が芽生えたことも暗示している。こんな歌を貰って喜ばない女はいないだろう。〈たとえ〉の勝利である。また、長い修飾語によって、思いのすべてが「君」に注がれるほど熱い思いを表している。それでいて、そんな君に対する思いそのものは表現していない。すべてを言い尽くしていない。それは読み手の想像に任せている。それでも、おそらく、読み手は(わずかに見えたあなたは、どうなさっていますか。あなたが恋しくてなりません。お逢いしたいです。)といった作者の思いを受け取ったことだろう。歌は、このように読み手が補って完成するように作らなければならない。言い尽くさないことが肝要なのである。この歌はそのお手本になっている。

コメント

  1. まりりん より:

    女性は「ナンパ」されに出掛けていくわけですね。女の家まで着いていくとは、これって一歩間違えばストーカー? 男性は、嫌がられないように良い歌を贈らなければ。。

    当時の歌は、読み手が補って完成する。現代の短歌は、すでに完成されていますよね。具体的で分かり易いものが良い? 古典和歌と現代短歌の大きな違いですかね。

    • 山川 信一 より:

      読み手に参加する余地を残していく、全てを言い切らないは、歌の基本です。これは昔も今も変わりません。それができていない歌は、現代の歌であろうとダメな歌です。
      おっしゃるとおり現代の歌は、分かり易さが重視されすぎているかも知れませんね。一方で、自閉してわからなくても構わないという歌もあります。いずれにしても、読み手をもっと意識した方がいいとは思います。

  2. すいわ より:

    三方を山に囲まれなだらかに広がる春日野。一面真っ白な雪に覆われているが、そこに見つけた一点の春。瑞々しくも美しい貴女、こんなにも沢山の者が見つめている中、この私が貴女を見つけたのです、と言っているようです。貴族の女性が外出する事は特別な時でなければそうそう無い事でしょう。出会いのチャンス、どこの姫君か従者を走らせ在所を突き止め誰より早くこの思いを届ける、、受け取る側のドキドキ感も伝わってきます。お外デビューの初々しい姫君だったらきっと舞い上がる事でしょうね。

    • 山川 信一 より:

      この女は「雪間の若草」にたとえられるような初々しい少女だったのでしょう。「どこの姫君か従者を走らせ在所を突き止め誰より早くこの思いを届ける」歌にその感じが出ていますね。恋は早い者勝ちの一面もあります。ぐずぐすしていては、手に入らないものもあります。その意味で、次の歌とは対照的です。

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