《山の天気》

よとかは つらゆき

あしひきのやまへにをれはしらくものいかにせよとかはるるときなき (461)

あしひきの山辺にをれば白雲のいかにせよとか晴るる時なき

「山の麓にいると、白雲がどうしろと言って晴れる時がないのか。」

「あしひきの」は、「山」に掛かる枕詞。「(をれ)ば」は、接続助詞で条件を表す。「(せよと)か」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして文末を連体形にする。「なき」は、形容詞「なし」の連体形。
淀川を遡って山の麓にいる。そのため、この辺りは始終曇っていて、山気に覆われ晴れる時がない。一体白雲は、天気をどうしたいのだろうか。
作者は、白雲を意志を持ったものとして扱い、山の天気を左右する白雲へのいらだちを詠んでいる。「川」からの連想で「山」を出してきた。ただし、題の淀川からは懸け離れた内容になっている。しかし、「よどかは」は、巧みに歌の中に隠されている。これまでの物名からわかるように、物名には様々なタイプの歌が採用されている。物名の概念が揺れていたのだろう。その中で、この歌の作者は、題の詠み込みの巧みさに徹している。題と歌の内容の関連にはそこまでこだわっていない。物名の魅力は、題の詠み込みの巧みさにあると考えていたのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    物名、きっと宴の余興とかには重宝なものだったのでしょう。でも、遊びならばともかく、どう隠すのかを主眼に置くのならば、物名の題にこだわらない方が歌の完成度は絶対的に高くなりますね。「歌集」の完成度、歌のクオリティを貫之としては落としたくない。物名と知らされていなかったらこの歌に川の名が隠されていると気付けないかもしれません。

    • 山川 信一 より:

      貫之は和歌の可能性をどこまでも追求したかったのです。そのためには、物名も欠くことはできませんでした。しかし、すいわさんがおっしゃる通り『古今和歌集』の歌のクオリティを落とすわけにはいきません。単なる言葉遊びにはしたくないはずです。物名からは、そんな苦悩が伺えますね。

  2. まりりん より:

    山の天気は変わりやすく予測がつかない。いつも雲のご機嫌伺いをしていなくてはいけない、まったく。。そんな苛立ちが伝わってきますね。この気持ちはよくわかりますね。

    • 山川 信一 より:

      まりりんさんは、山登りもされるのでしょうか?多趣味でいらっしゃいますね。

  3. まりりん より:

    注意せよと川は危険と知りながら減らぬ川での事故の不思議

    毎年この時期、連日のように川での死亡事故が報道されるのに、どうして川遊びするのでしょうか。不思議でならないのです。

    • 山川 信一 より:

      この物名は、全体で三十一音に揃えたのですね。俳句ではよくありますが、短歌はどうなのでしょう?あまり見ません。短歌は、上の句と下の句という捉え方をするからでしょうか?また、歌なので全体の調べを大切にするからでしょうか?そこで・・・
      *注意せよとかはよく聞く川遊び危険なほどに魅力増される

      • すいわ より:

        足とらる濡れ衣だよと河太郎
        命繋ぐは遊びの知恵

        その知恵を授けられないのは大人が遊びから学ばずに大人になってしまっているからかもしれませんね。

        • 山川 信一 より:

          なるほど、その通りですね。大人から子どもへの生きる知恵の伝達の機会が減っていますね。子ども同士の交流も少なくなりました。昔はガキ大将が遊びの知恵を伝えてくれました。どうしたらいいのでしょうか?
          物名の歌は、うまく「よとかは」を詠み込みましたね。「遊びの知恵」は、詠嘆を表すための意識的な字足らずですか?しかし、物名ならば、ここは定型にした方がいいでしょう。「知恵ぞ」とか。

          • すいわ より:

            失礼しました、メモから貼り付けたら最後が欠けました。「遊びの知恵よ」としてました。「知恵ぞ」の方が注意喚起になるでしょうか。

          • 山川 信一 より:

            そうですね。強くはなりますが、押しつけがましくもなります。どちらを選ぶかは、作者次第です。

      • まりりん より:

        これは、1句目が字余りで結句が字足らずのつもりでした。結果的に三十一音になったのですね。でも、物名の場合は定型が望ましいという事ですね。

        • 山川 信一 より:

          俳句では、全体で十七音に整える破調の句があります。しかし、短歌では全体で三十一音の歌と言うのは聞いたことがありません。その理由は、俳句はあくまで「句」であり、短歌は調べを大切にする「歌」だからです。短歌が五音と七音でできているのは、偶然ではありません。10までの中の素数は、3・5・7の3つです。素数にすると内容がひとかたまりに感じられます。そこで、日本の詩歌はこの組み合わせでリズムを作ります。しかし、三音では内容が盛り込みにくい。そこで選ばれたのが五音と七音の組み合わせです。そして、試行錯誤の末、五七五七七になりました。ですから、これは簡単に崩してはならないのです。特に「物名の場合は定型が望ましい」わけではありません。以前こんな短歌を作りました。
          *五と七は分割できぬ素数なり韻律つくる歌の数学

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