《道真への挑戦》

朱雀院のならにおはしましたりける時にたむけ山にてよみける 素性法師

たむけにはつつりのそてもきるへきにもみちにあけるかみやかへさむ (421)

手向けには綴りの袖も切るべきに紅葉に飽ける神や返さむ

「朱雀院が奈良にいらっしゃた時に手向山で詠んだ  素性法師
手向けの幣には私の袖も切るべきだが紅葉に満足している神は返すだろうか。」

「(切る)べき」は、適当当然の助動詞「べし」の連体形。「(飽け)る」は、存続の助動詞「り」の連体形。「(神)や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(返さ)む」は、推量の助動詞「む」の連体形。
この度は慌ただしい旅で幣も用意できませんでした。それでも、手向山で旅の安全を祈願しないわけにはいきません。幣の代わりに私の継ぎ合わせた粗末な僧衣の袖を切って間に合わせるべきなのでしょう。しかし、この紅葉の美しさに堪能している神は、こんなものは要らないとお返しになるでしょうか。何とも素晴らしい紅葉です。
この歌も紅葉の美しさを讃えている。そして、前の道真の歌に対抗して作られている。つまり、二重構造になっている。道真の歌は、伝統的な和歌として申し分のない出来である。しかし、素性法師はそれに飽きたらず、新しいタイプの歌を詠んだのだろう。讃えるために、比較の対象として自分の粗末な僧衣を持ち出している。歌に作者自身の姿や思いを積極的に詠み込んだのである。いかにも『古今和歌集』的な歌である。和歌の神様は、伝統的な歌の前にこの新しい歌を受け入れてくれるだろうか、それともこんな歌は要らないと返すだろうかと言っているようだ。大家への若者の挑戦である。
編集者は、それを踏まえてこの二つの歌をセットとして載せている。

コメント

  1. すいわ より:

    幣の御準備が無かった、ならば私のこの粗末な袖を切って急拵えの幣と致しましょうか。でも菅家様も仰るように、豪華な紅葉の幣に日頃から馴染まれている神々はこのような物、お返しになられるだろうか(いや、かえってお目に留まるかも)。なるほど、言の「葉」の挑戦。伝統は革新によって洗練されて行くのですね。

    • 山川 信一 より:

      歌の出来映えからは、道真の歌に軍配は上がるでしょう。『百人一首』に採られるほどの出来です。優れた歌であることは、素性法師にもわかっていたはず。しかし、それでも、果敢に挑戦する素性法師の姿勢が好ましく感じられます。たとえ手向山の神が僧衣のを切った幣をお返しになっても、和歌の神は素性法師の歌はお返しになることはないでしょう。

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