《一人待つ身》

題しらす よみ人しらす

すかるなくあきのはきはらあさたちてたひゆくひとをいつとかまたむ (366)

すがる鳴く秋の萩原朝立ちて旅行く人をいつとか待たむ

「似我蜂が鳴く秋の萩原を朝発って旅に行く人をいつ帰るのと待つのだろうか。」

「(いつと)か」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(待た)む」は、推量の助動詞「む」の連体形。
すがる(=似我蜂)があなたに行かないでと縋る私のように寂しげに鳴いております。それでもあなたは秋の萩原をこの朝発って行きます。私の心は別れの悲しみでいっぱいでございます。私は、あなたを「いつ帰って来るの」とこれからずっと待っているのでしょうか。お名残惜しゅうございます。
秋の朝萩原を旅立つ人に別れの挨拶をしている。「すがる」は、似我蜂のことではあるが、その一方で旅立つ人に縋る自分を掛けている。その人との別れの悲しみとその人が帰って来るのを待ち続ける寂しさを詠んでいる。秋の朝という季節感、萩原という場所が別れの悲しさ・寂しさを更に募らせている。そんな自分のために早く帰ってきて欲しいという思いを伝えている。

コメント

  1. まりりん より:

    前の(365)が旅立つ人の寂しさを詠んでいたのと対象に、こちらは旅立つ人を見送る人の寂しさを詠んでいますね。見送る側と見送られる側、どちらの立場も其々の寂しさがあると思いますが、いつ帰るかわからないまま待っているのは、苦しいことだろうと想像します。すがるの鳴く音が、別れのシーンのBGMのようです。

    • 山川 信一 より:

      確かにそうですね。旅立つ人よりも残された方が寂しい気がしますね。すがるの鳴く音が別れの悲しさ、悲しさを掻きたてます。

  2. すいわ より:

    ひたすらに寂しい光景ですね。旅立ちの朝。男は振り返ることもない。秋萩に置いた露は縋る女の涙か。道を分けて袖が濡れても男は一向に気にも留めない。スガルも私と一緒に泣いている。でも、さざめく萩原の波にささやかな羽音はかき消されてしまう。貴方はいつ、帰って来てくれるのだろう、、。
    似我蜂自体、女の人を連想させ、もしかするとお腹に子がいるのかも。
    本当なら清浄な美しい空間なのでしょうけれど、心許ない不安な気持ちのせいで冷えた秋の空気が一層切ない情景としてこの場を映し出します。

    • 山川 信一 より:

      男女の別れのシーンとして読んだのですね。なるほど、そんな風にも思えてきます。「男は振り返ることもない」かどうかはわかりませんが、女にはきっと冷淡に思えたのでしょう。似我蜂の膨らんだ腹が妊娠した女性を連想されますね。時間・場所・音声が別れの思いを際立たせています。

      • すいわ より:

        この歌を読んで伊勢物語の「梓弓」のところを思い出しました。

        • 山川 信一 より:

          同感です。あの男はこんな気持ちで都に行ったのでしょう。なのに・・・・。こうしてみると、和歌から物語へはもう半歩ですね。『古今和歌集』の編者が物語を作りたくなった気持ちがわかります。和歌は、既に世界で一番短い物語ですから。

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