勇に誇ろうとしてではない

 そうして、附加《つけくわ》えて言うことに、袁傪が嶺南からの帰途には決してこの途《みち》を通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人《とも》を認めずに襲いかかるかも知れないから。又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方《こちら》を振りかえって見て貰いたい。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、以《もっ》て、再び此処《ここ》を過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。

 あたしの番だ。いよいよお別れだ。李徴にはまだ何か望みがあるのかな?
「自分の姿を今一度見せると言う。それは、二度と会おうと思わせないためだと。一応理屈はわかるけど、李徴だと何かあるんじゃないかって疑ってしまうよね。何か気が付いたことがある?」
「「勇に誇ろうとしてではない。」という言葉が気になるな。虎としての勇ましさを誇るつもりじゃないっていう気持ちだよね。なんで、こんな気遣いをしたんだろう?」
「この台詞はなくても、十分に意図は伝わるのにね。ちょっと不自然だね。」
「「勇に誇ろうとして」いると思われると、都合が悪いのかな?逆にそう思われたいのかな?どっちなんだろう?」
「李徴は「勇に誇ろうとして」いたんじゃないですか?それで、そう思われないように「勇に誇ろうとしてではない」と言ったんです。」
「どうして、純子?」
「前に、自分の悲劇性を印象づけるために、巌で咆える様子を言葉で言っていましたよね。あれだけでは十分ではないと思ったからです。実際に、虎の姿を人々の目に焼き付ける必要があると。その意図がこの台詞を言わせてしまったんです。」
「そうか、だから、その意図を悟られるのではないかと心配になってこう言ったんだね。なるほど、それなら説明がつく。純子、やるじゃん!」
 李徴は最後まで李徴なんだね。虎の姿を見せることは、悲劇の詩人であることを印象づけるために必要だったんだ。純子もいつの間にか読めるようになっていた。

コメント

  1. すいわ より:

    妻子の時と同様に、もしもの事を考えて友に危害が加わることのないようにという気持ちも少なからずあったのでしょうけれど、まず第一に考えるのが、「悲劇の詩人」たる事。前出の七言律詩を再現して見せる事で、あの時の、あの虎の、あの詩が伝説になるように。夜のすっかり明けぬうちに、残月が光を失う前に成し遂げなくては。李徴、焦った事でしょうね。

    • 山川 信一 より:

      確かに、友を気遣う気持ちに嘘は無いでしょう。李徴にはそうした優しさがあります。しかし、それだけでは無いのも李徴です。
      即興の詩も、悲劇の詩人を印象告げるための手段でした。ここでは、姿を見せることが効果的だと考えたのでしょう。
      なるほど、月を小道具に用いたのですね。どこまでも周到な男です。

  2. らん より:

    李徴は必ず、相手に言われる前に言いますね。○○ではないと。

    悲劇の詩人と思われるために李徴はすべて計算してるんだなあと思いました。
    虎になって悲劇の詩人になれて良かったのではないかと思いました。
    これが李徴です。
    一つのものに徹することができて良かったですね。
    自分のイメージ通りに相手に想ってもらえたかな。

    • 山川 信一 より:

      結果的には、虎になってしまったことで、皮肉にも悲劇に詩人になれましたね。
      ただし、これを「一つのものに徹することができて良かった」と言っていいかどうかは疑問です。
      それが嘘であることは、李徴自身が一番よく知っています。
      しかも、李徴の嘘はいつかはバレます。なぜなら、私たち読者にさえ見抜かれてしまったのですから。
      伝説の詩人にはなり得ません。

タイトルとURLをコピーしました