《秋の小野》

をのといふ所にすみ侍りける時もみちを見てよめる  つらゆき

あきのやまもみちをぬさとたむくれはすむわれさへそたひここちする (299)

秋の山紅葉を幣と手向くれば住む我さへぞ旅心地する

「小野と言ふ所に住んでおりました時に紅葉を見て詠んだ  貫之
秋の山が紅葉を幣のように手向けるので住む私までが旅心地することだ。」

「侍りける」の「侍り」は丁寧の補助動詞の連用形。「幣と」の「と」は、格助詞でたとえを表す。「手向くれば」の「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「我さへぞ」の「さへ」は、副助詞で添加を表す。「ぞ」は、係り助詞で強調を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「する」は、サ変動詞「す」の連体形。
ここは由緒ある小野の地である。だからだろうか、秋の山が紅葉を幣を手向けるように思える。そのために、この私までが旅に出たような心地がする。唐の詩人李白は、季節は違うけれど、「夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過各なり。」と言っているではないか。生きることは、時を旅をすることなのだ。小野の紅葉の落葉がそう思わせる。
詞書きに「住み侍りける」と丁寧の補助動詞「侍り」を使っている。これは、「小野」が何か特別な地であることを示唆する。九百七十番の歌の長い詞書によれば、小野は惟喬親王が出家し閉居した所であり、業平が訪ねたことがわかる。(ちなみに、『伊勢物語』第八十三段にも同様の話が載っている。)作者はその事情を思い出したのだ。「我さへ」とあるのは、業平ばかりではなく、この私までもという思いを表している。すなわち、作者はしばし時の流れに思いを馳せている。
この歌は、秋の小野にあって、惟喬親王と業平を思う心情と時の流れの中を旅する人間の感慨を詠んだものである。

コメント

  1. まりりん より:

    時を旅する、という発想がとても粋だと思いました。時の旅人はファンタジー小説の中だけではないのですね。タイムマシンの概念も無かったでしょうに。改めて、古典はちっとも古くないと感じます。
    作者は、小野で暮らして何度も四季が巡っても、決して同じ景色はない事、同じ時間は巡ってこないことを感じていたのかも知れませんね。

    • 山川 信一 より:

      「同じ時間は巡ってこない」。なるほど、「旅心地する」をそう読みましたか。四季も自分も旅人なのですね。作者は、何物も同じ所に住み続けることはできないという当たり前のことを思い知ったのですね。

  2. すいわ より:

    「秋の山がまるで幣を振るように色付いた木の葉を散らしている。この美しい所を目指し訪れる人があるだろうに、ここに住まう私までも旅に送り出される心地がする、、」さあ、何処へ送り出されるのか。
    詞書きの「侍りける」がこんなにも歌の内容を増幅させるとは。貫之の住む『小野』はかつて惟喬親王が住まわれ、業平が訪れた特別な場所。空中を舞う紅葉は時の流れを象徴するようでもあり、その時間軸を辿って、その物語を目の当たりにする。白昼夢のひと時、心の旅で見た事が真実であった証のように、紅葉は変わらず赤々と秋を彩っている。

    • 山川 信一 より:

      「旅心地する」を「ここに住まう私までも旅に送り出される心地がする」と捉えましたか。この解釈もあり得ますね。ただ、作者の心は、時は超えても、小野の場所は離れないような気がします。
      とは言え、いつも通り豊かな素晴らしい鑑賞です。
      とにかく三十一文字に籠められた作者の思いの深さに圧倒されます。和歌とはこれほどまでに読み手の想像力を刺激するものなのですね。さすが貫之です。

      • すいわ より:

        言葉が足りませんでした。送り出された行き先が、業平が訪れた惟喬親王のいらっしゃる『小野』。そして時間旅行から戻ると変わらぬ美しさの秋がそこにある。違うけれど同じ。別々の人に通奏低音のように流れる一つの心。
        まりりんさんの仰る通り、「古典はちっとも古くない」。竹取物語なんて、とんでもないSFですし(平安の時代に月に人が住んでいると想像することが凄いと思っておりました。)、死生観まで描かれて、想像の豊かさで現代人負けていますね。

        • 山川 信一 より:

          そういうことでしたか、誤解しました。「通奏低音のように流れる一つの心」、わかるような気がします。素敵な鑑賞をありがとうございます。
          確かに、日々の生活にしか関心がない人には、月に人が住んでいるという発想は、そうできるものではありませんね。

        • まりりん より:

          竹取物語、本当にそうですね、SFですね。今まで全く認識していませんでした。
          現代人はロケットで月に着陸はしたけれど、感性は平安の人々には及びませんね。

          • 山川 信一 より:

            確かに、感性、それも言葉を通してのそれにおいて、現代人は平安人の足下にも及びませんね。だから、古典に学ぶ必要があるのです。

タイトルとURLをコピーしました