古今東西、物語や歌の主題・題材の多くは、〈恋愛〉である。この事実は何を意味しているのか。しかし、こんな壮大な問いに対する答えは、意味がない。答えは、何とでも言えるからだ。合っているとも、間違っているとも判定できない。単なる主観になってしまう。したがって、論ずるなら、答えの明らかな小さな問題にすべきである。
にしても、ここで敢えてひとつの仮説を立てる。演繹法に挑戦してみる。それは次の仮説である。
「人類は、恋愛ドラマがないと、男女はお互いに関心を持たなくなる。これは種の保存上危険である。そこで、恋愛ドラマにより、お互いに関心を持つように教育している。」
もう少し、説明を加える。男女は、同じ種とは言え、肉体的に違いが大きい。ゆえに、異性は、精神的にも同性よりわかり合えない。異性がわかり合うには努力がいる。努力は時に面倒である。そのため、放っておけば、同性同士が固まることになる。その事実は、子どもを見ても、大人を見ても明らかだ。なるほど、それは文化・習慣によると言うこともできる。たとえば、儒教による「男女七歳にして席を同じうせず。」がそれだ。放っておくと、男女は淫らに結びついてしまうからだろう。確かに性欲による結びつきはある。これはコントロールしなくてはならない。しかし、人類には発情期がないとも言う。ただし、これは常に発情しているとも、常に発情していないとも言える。そして、いにしえの昔から発情を処理する方法は有った。いずれにせよ、男女の結びつきは発情に任せれば済むものではない。そこで登場したのが恋愛である。恋愛は、男女を結びつける手段・方法であり、文化である。男女が互いに関心を持つのは、無為の自然状態ではない。その方法は様々に工夫されてきた。これによって、男女は初めて互いに関心を持るのだ。だから、教育が要る。
とは言え、実際の恋愛が常にいいものとは限らない。むしろ、労多く甲斐がない方が多い。損得勘定からすれば、やめた方がいい。現代はそれでなくてもお金で価値を決める時代である。それゆえ、お金にならないものは価値がない。恋愛に価値がなくなるものも当然と言えば当然である。
哲学者鷲田清一はコラム『折々のことば』で現代の「最大のタブー」について次のように言う。「人びとが本当に恐れるのは、傷つき、ときに自分が壊れてもしまう、『愛』という名の他者とのディープな交感なのかもしれない。」
なるほど、「愛」はお金で買えない。ところが、だから価値があるとは考えなくなってしまった。むしろ、値段が無いものは、価値がないと考えるようになったのだ。しかし、これは仮説で述べたように人類にとって危険な状況である。そのため、現代では恋愛ドラマがますます重要な役割を担っている。男女は、恋愛ドラマによりそれを学ぶことで、互いに関心を持ち、自らも恋愛しようとするようになる。
ところが、この種のドラマが正しい恋愛を教えてくれる保証はない。時に男女をいたずらに混乱させることもあろう。古代にもそう考えた賢人がいたに違いない。その一人が『伊勢物語』の作者である。この作品によって、正しい恋愛のあり方を示そうとしたのだ。『伊勢物語』は正しい恋愛のあり方を教えてくれる。言わば、恋のバリエーションを教えてくれる、恋の教科書である。これが学校教育で古典を学ばせる理由の一つであろう。
『伊勢物語』は『古今和歌集』との多くの類似性が見られる。証明は難しいけれど、恐らく作者は紀貫之だろう。日本文学史上最高の知性・表現者が作り上げたと想像する。『古今和歌集』『土佐日記』『伊勢物語』は、貫之の三部作だろう。貫之が物語に挑まないわけがない。いずれも日本語表現の宝庫である。だから、現代人も学ぶに値する。そこで、『伊勢物語』をはじめから百二十五段すべて読んでいく。
コメント
伊勢物語は学生時代に読んだきりですが、改めてまた勉強したくなりました。これからの授業をとても楽しみにしています。
初めてのコメントです。ありがとうございます。
期待に添えるよう頑張ります。
昔から恋愛ものが大好きだったのですが、最近はよくあるパターンにも飽きてきて同時に自分の恋愛モードもオフになっていた私は、この内容にすぐにくいついてしまいました。
恥ずかしながら伊勢物語ときいてどんな話だったか思い出せないのですが、これから1段1段楽しみに読みます!
ありさん、コメントありがとうございます。「国語教室」の内容がありさんにぴったりでよかったです。
試験はありませんので(笑)、ゆっくり楽しんで読んでみてください。
また、感想を聞かせてください。楽しみにしています。