第二百四十一段  何のための人生か

 望月のまどかなる事は、暫くも住せず、やがて欠けぬ。心とどめぬ人は、一夜の中に、さまで変るさまも見えぬにやあらん。病の重るも、住する隙なくして、死期既に近し。されども、いまだ病急ならず、死に赴かざる程は、常住平生の念に習ひて、生の中に多くの事を成じて後、閑かに道を修せんと思ふほどに、病を受けて死門に臨む時、所願一事も成ぜず、言ふかひなくて、年月の懈怠を悔いて、この度、若したちなほりて命を全くせば、夜を日につぎて、この事かの事、怠らず成じてんと、願ひを起すらめど、やがて重りぬれば、我にもあらず、取り乱して果てぬ。このたぐひのみこそあらめ、この事、まづ、人々急ぎ心に置くべし。所願を成じて後、暇ありて道に向はんとせば、所願尽くべからず。如幻の生の中に、何事をかなさん。すべて所願皆妄想なり。所願心に来たらば、妄心迷乱すと知りて、一事をもなすべからず。直ちに万事を放下して道に向ふ時、さはりなく、所作なくて、心身永くしづかなり。

常住:世の中が永久不滅であること。
平生:人生は平穏に生きられること。
所作:仏語。身・口・意の三業が発動して作り出す具体的な行為。受戒や懺悔。

「満月が丸く満ち足りていることは、しばらくの間もそのままではなく、直ぐに何か欠けてしまう。それを気に掛けない人は、一晩の内に、それほどまで変わる様子も見えないのであろうか。病気が重くなるのも、そのままである期間もなくて、死期が既に近い。しかし、まだ病気がひどくなくて、死に直面しないうちは、常住や平生の考えに囚われ、一生のうちに多くのことを成して後、心静かに仏道を修行しようと思う内に、病気に罹って死の入口に臨む時、自分が願うことは一事も成就せず、どうしようもなくて、これまでの年月の怠りを悔いて、今後もし命を取り留めたら、昼夜を通して、この事もあの事も、怠らず成し遂げようと、願いを起しているだろうが、そのまま病気が重くなってしまうと、自分を失って、取り乱して死んでしまう。この類いのことばかりがあるようだけれど、この事を、まず、人々は急いで心に籠めておかねばならない。願う所のことを成し遂げた後、暇があるようになってから仏道に向かおうとするなら、願う所のことは尽きることがないだろう。幻のような一生の中で、何事を成し遂げようか、そんなものはありはしない。すべて願う所のことは、皆妄想である。願う所のことが心に起こって来たなら、正しくない心が迷い乱れているのだと悟って、一事もしてはならない。直ちに万事を捨て去って仏道に向かう時、差し障りなく、所作もなくて、心身共に長く安静である。」

世は無常であり、人生は夢・幻である。そこで、何かを成し遂げようとしても空しいだけだ。病気に罹り死期に及んで、仏道修行をしなかったことを後悔するのが関の山である。だから、直ぐに全てを捨て去って、仏道修行に専心すべきである。と言った、これまでも繰り返し唱えてきて論である。人生を死後のために費やすとするなら、何のための人生なのかと反論したくなるけれど、仏道修行に励まずやりたい放題の法師ばかりで、いくら言っても、言い足りないくらいだったのだろう。だから、法師でない我々は、この考えをそのまま受け入れることはできない。しかし、人生は短いので、自分にとって肝心なことを率先してすべきだということなら、納得できる。この場合、「自分にとって肝心」というところが重要なのである。肝心なことがあらかじめ「仏道」だと決められているところが受け入れられないのである。

コメント

  1. すいわ より:

    兼好にとっての、そして志を同じくする、仏道を歩んでいるはずの法師たち宛てに書かれたものとして読めば納得できます。
    人(生き物)の命には限りがあって、その人一代では成し遂げられないものも多々あります。達成のないものに注力するのは虚しい事なのか?たった1人では無理でも、子々孫々、弟子、孫弟子、、とリレーする事でより良いものへと洗練、当初思い描いていた達成よりも更に良いものへと結びつけていく事が出来る。これって兼好の大好きな「伝統」なのではないでしょうか。ただ古いのでなく、技の抽出を繰り返し、練り上げ、出来上がったものが伝統なのだとしたら、引き継いだそれは「最新の」伝統。精度の落ちぬよう、日々鍛錬。ストイックさを要しますね。
    どこかの誰かの努力によって「徒然草」だって今ここに届いている。虚しくないと証明するために、私も学び続けます。

    • 山川 信一 より:

      兼好には、受け継ぐという視点、すなわち、伝統の視点が欠けているのですね。同感です。人は決して一人で生きている訳はありません。だから、この段の内容は、一般化することができませんね。怠惰な法師への戒めとして読みましょう。

タイトルとURLをコピーしました