黒がねの額《ぬか》はありとも、帰りてエリスに何とかいはん。「ホテル」を出でしときの我心の錯乱は、譬《たと》へんに物なかりき。余は道の東西をも分かず、思に沈みて行く程に、往きあふ馬車の馭丁に幾度か叱《しつ》せられ、驚きて飛びのきつ。暫くしてふとあたりを見れば、獣苑の傍《かたはら》に出でたり。倒るゝ如くに路の辺《べ》の榻《こしかけ》に倚りて、灼くが如く熱し、椎《つち》にて打たるゝ如く響く頭《かしら》を榻背《たふはい》に持たせ、死したる如きさまにて幾時をか過しけん。劇しき寒さ骨に徹すと覚えて醒めし時は、夜に入りて雪は繁く降り、帽の庇《ひさし》、外套の肩には一寸許《ばかり》も積りたりき。
「自分が厚顔無恥であっても、帰ってエリスに何と言おう。ホテルを出た時の心の錯乱はたとえようが無かった。方向感覚を失い、思いに沈んで歩くうちに車道に乗り出し馬車の御者に何度か怒鳴られる。しばらくして、気付いてみると動物園の傍に出た。倒れるように道のベンチに寄って、焼くように熱く、木槌で叩くように響く頭を椅子の背に持たせ、死んだかのように何時間か過ごしたのだろう。激しい寒さが骨に徹すると思えて目が覚めた時は、夜になって雪はしきりに降り、帽子の庇、外套の肩には雪が一寸ほど積もっていた。これがその後の豊太郎の様子だけど、どう思う?」
「エリスを裏切ってしまったことから来る罪悪感に耐えられなくなったんだね。現実から逃避しようとしている。」
「なんて卑怯な男なの。自業自得ってこのことだよね。なんで現実にしっかり向き合おうとしないの。」
「天方伯の前でも、エリスに対してもカッコばかりつけている。ホントの自分を見せられない。すごい見栄っ張り。」
「結局、自分自身から逃げているんだ。これじゃ、嘘で固めた人生じゃないか。」
豊太郎は、カッコばかりつけている。天方伯に認められたいからだ。少しでもいい評価を得たいのだ。なぜ、自分を曝け出して、天方伯と対等にやり合うことができないのだ。それは、豊太郎にとって、自分の価値は他者が決めるものだからだ。これでは、「いいね」を欲しがるのと一緒だ。
これはエリスに対しても同じだ。エリスからは尊敬できる「先生」でなければならないと思っている。決して軽蔑されてはならないのだ。もし本当の自分を見せたら、エリスからの愛は得られないと思い込んでいるのだろう。
豊太郎は、言わば、虚栄心の亡者だ。それが豊太郎の正体だ。反面、それは破滅願望になって現れる。この境遇は、豊太郎自身が望んだことだからだ。破滅したいがために、虚栄心を利用したと言ってもいい。崩壊の愉悦を味わいたいのかもしれない。
コメント
母の訃報を手にした時に、(旧)豊太郎は既に死んだも同然だったのかもしれません。真っ暗な闇の中、母の胎内から今まさに生まれ出ようとしているかのように見えなくもない、完璧な喪失の後に生まれ変わる為に破滅を目指すのか。仮の母を手に入れた事で、実の母の喪失をあやふやなまま受け止めきれずにいるのではないか?母のいない日本に帰る理由もない、でも日本に帰って自分を縛る柵の絶対の喪失を確認しなくては自由な自分を生まれさせられない。自分を生まれさせるにはドイツに存在する自分を切り離す、それはエリスとの生活の決別でもある。自分はどうすれば、何を選択すれば良いのだろう、、なんて子供の豊太郎は思わないか、、船上で回顧して悲劇の自分を描いている豊太郎は「虚栄心を利用して崩壊の愉悦」を味わっているのでしょうね。狡い大人に一歩近づけて成長?したのかも。一昨日から色々考えすぎて整理がつきません。頭からもう一度読み直してきます。
鑑賞は創作につながります。それは大胆に自由になされるべきです。こうでなくてはならない、それは間違っているという種類のものではありません。
すいわさんの「母」という観点から豊太郎を統一的に理解するのは実に興味深い鑑賞です。考えすぎるなんてことはありません。どこまでも突き進んでください。
ただ、その前提として『舞姫』の表現が示す趣旨は、物語に沿って押さえていきましょう。
豊太郎は、この〈悲劇〉を回避できました。自らそれをしなかったのです。大臣から「何を虫のいいことを言っているのか。お前の代わりなどいくらでもいるのだ。とっととこの場を去れ!」と言われるのが怖かったのです。
それは、本国や名誉回復以上に、豊太郎の存在価値を否定し、プライドを傷つけるからです。
しかし、実際は天方伯は豊太郎を手放したくはなかったはずです。交渉の余地は十分ありました。豊太郎が臆病なだけです。あるいは、かっこつけたかったらです。時には単純に考えてみることも有効です。