安らかな得意と満足

「何をしていた。云え。云わぬと、これだぞよ。」
 下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球が瞼の外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗(しゅうね)く黙っている。これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。「そこで、下人は、老婆を見下しながら、少し声を柔らげてこう云った。
「己は検非違使の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄をかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、それを己(おれ)に話しさえすればいいのだ。」

 美鈴はいいところが当たったね。。この場面に於ける、下人の心理の移り変わりはすごく興味深い。
「「いきなり、太刀の鞘を払って、白い鋼の色をその眼の前へつきつけた。」とありますが、ここからどんなことがわかりますか?」
「下人の行為が大げさであること。力の差が歴然としているんだから、何も刀まで抜かなくてもいいんじゃない?」
「確かに、鶏の脚のような骨と皮ばかりの老婆なんだよね。なんでそこまでやるの?」
「下人が臆病な男だからだよ。恐らくこんなことをしたのは初めてだと思う。匙加減というものができなかったんだ。」
「何しろ、老婆一人を憎むにもあらゆる悪に対する反感がいる男だからね。」
「ここは、単に「鋼」ではなく「白い」という色を出してきているのはなぜですか?」
「その情景をリアルに思い浮かべさせるため。この作品では、色を効果的に使っているよね。」
「初めから驚かすためであって、殺すつもりは無い。下人がその色を見せれば十分だと思っていたことを言うため。」
「老婆の描写の描写からわかることは何?」
「怖がってはいるけれど、屈してはいないこと。しぶとく、反撃方法を考えているみたい。」
「「全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。」とありますが、なぜあれほど激しい憎悪の心が冷めてしまったのですか?あらゆる悪に対する反感はどこへ行ったのですか?」
「それは下人が老婆に対して圧倒的に自分が上であると感じたからだよ。生死を支配するほど、相手に優位に立つことはない。殺そうと思えばいつでも殺せるんだからね。しかも、元々、老婆に対する憎悪の理由なんて大したものじゃなかったから。復讐としてはこれで十分だったから。やり過ぎておつりが来るくらいだよね。」
「老婆を唖のように黙っていることもその理由に挙げてもいいんじゃない?自分が黙らせたんだから。」
「そうすると、自分勝手な憎悪を正当化するための口実に過ぎなかった大義名分である「あらゆる悪に対する反感」は意味を失う。だから、あっさり消えてしまう。」
「「全然」を否定では無く、肯定と呼応させて使っているんだね。あたしがそう使ったら直されそう。言葉の使い方は時代によって変わるんだね。この時代、「全然」は呼応の副詞じゃなかったんだ。」
「「後に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。」とありますが、ここからわかることはありませんか?」
「やったことの意義などはどうでもいい。自分がしたことにただただ酔っていること。」
「「少し声を柔らげてこう云った。」からわかることは?」
「下人が老婆に優越感を感じていること。優越感は人を優しくするからね。優しさにはこのタイプのものがある。劣等感を感じる者には到底優しくなんてなれないよね。」
「「己は検非違使の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。」下人はなぜこんな言い方をしたのですか?」
「前の文の内容は本当だけど、後ろの文の内容は嘘。」
「老婆が検非違使の役人だと思っちゃうと、本当のことを言わないからじゃないの?」
「それもあるけれど、下人は自分を検非違使の役人にでもなったくらいに思っていたからじゃない?それくらい、いい気になっているんだ。」
「「旅の者だ。」はウソだね。解雇されて路頭に迷っている下人なのにね。これは本当のことを言うと、今の有利な立場が危うくなるからだね。それを失いたくないんだ。つまり、虚栄心の表れ。」
「下人はなぜ老婆に何をしていたのか聞いたのですか?」
「自分の手柄の大きさを確かめるためじゃない?」
「「ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足」に浸っているからね。仕事の成果を確かめたいのは自然な心理だね。」
 優越感は人を優しくするんだね。確かにこの種の優しさってある。見た目も頭もよくない子が人気があったりするけど、もしかして、あれって劣等感を感じさせないから?つまり、周りの子が優越感を感じていられるから?それなら、偽物の優しさだよね。それに気づいているのかな?

コメント

  1. すいわ より:

    老婆に対して絶対優位であればこそ、こんな尊大な態度を取れるのですね。抜身の太刀を振りかざす姿、芝居じみています。押し黙る老婆は死人同様と見て恐るに足らないと下人は思ったのでしょう。張りぼての英雄ぶりを確かなものにするべく、臆病がバレないよう注意を払いながら、老婆に悪であることを認めさせようとしていますね。いい気になって喋りすぎです。黙り込むという事も老婆の主張、そうした意味では下人よりも自己の意思を持っている。見開いた眼で下人を見つめる老婆、虚勢の綻びを見つけ出しそうです。

    • 山川 信一 より:

      老婆の役割は二つあります。一つは、下人の本性を暴くためのもの。下人は無力な老婆だからこそ、本性を剥き出しにします。老婆によって下人の正体が明らかになります。
      もう一つは、下人の本性を際立たせるためのもの。老婆は下人とは全く違うタイプの人間です。こんな荒廃した世にも死骸の中に潜み、生き抜いてきた人物です。
      現在の不利な状況でも下人の「虚勢の綻びを見つけ出しそう」とし、反撃の機会を狙っています。こんな老婆によって、下人の人物像が際立ちます。

  2. らん より:

    下人が優越感に酔ってることがすごくよくわかりました。
    安らかな得意と満足。
    人は自分より下のひとがいると、優越感を感じて優しくなれますよね。

    旅のものだなんて嘘言ったりして。笑っちゃいますね。
    下人はなんかわかりやすい人ですね。
    弱くてずるくて。
    私たちにもそういう部分があるなあと考えさせられました。

    • 山川 信一 より:

      下人のような人間は、決して珍しい訳ではありません。私たちがよく知っている、どこにでもいる人間です。それどころか、自分自身がそうだったりします。
      だから、作者は固有名詞ではなく、「下人」としたのでしょう。もしかすると、下人はあなたなんですよと言っているのかもしれませんね。
      もしそう言われたら、「違います!」と否定できますか?

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