路行く人を押しのけ、跳ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。
美鈴はいつも通りはきはきと話し出した。この子は怖いもの知らずだ。
「メロスは「黒い風のように」走ります。この「黒い風」というたとえが凄い。普通なら「風のように」だけど、風に「黒い」という色を着けました。そうすることで、凄い速さで走るメロスの姿が見えてきます。さらに、「少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った」と誇張表現を用います。メロスが沈んでいく太陽を意識して走っているかがわかります。そして、走っているうちにメロスの服が脱げてしまったのでしょう。ほとんど全裸体になります。恐らく靴も履いていませんよね。まわりの人はびっくりしたことでしょう。口から血が吹き飛んだと言ってます。凄く無理をして走っていたことがわかります。血もイメージカラーの赤です。夕陽を受けてきらきら光っている塔楼も赤く染まっています。黒い風のように駆け抜けるメロスとのコントラストが鮮やかで、印象的です。」
「色に注目したのね。赤と黒の対照が鮮やかね。「黒い風」がメロスの外見、「少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った」がメロスの内面を表しているのね。さすが太宰ね。上手いわ。」と真登香班長が同意した。美鈴は満足そうだった。
「塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている」から、逆に太陽がかなり沈んだことがわかります。これは、塔楼より低くなったことを表しています。」とあたしも気づいたことを言った。
「「少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った」は気持ちでもあるけれど、実際の走る姿でもあると思う。その上で、酒宴を横切り、犬を蹴飛ばし、小川を跳び越えと具体的に描くことで、効果を上げているだよ。つまり、印象と具体を並べているんだ。」と若葉先輩が指摘した。
「「不吉な会話」を耳にするけれど、これも障害の一つかな。つまり、これは噂。人は噂に惑わされることもあるわね。第八の障害は噂ね。」と真登香班長がまとめに入った。
「「風態なんかは、どうでもいい」と言っていますが、逆にメロスは普段は風態を気にしているのでしょう。だから、こんな重大な場面でこんなことを思っているんです。あたしにはやや不自然に感じられます。これは太宰自身がそういう人だったからじゃないでしょうか?」とあたしは思っていることを言った。
「そうね、太宰は服装を気にする人だったわね。」と真登香班長が同意してくれた。
コメント
鮮烈な色のコントラスト、酒宴の長閑さとメロスの疾走感の対比が緊張感を生み出しています。なりふり構わず、ひた走るメロス。噂を小耳に挟む。目的地が近付いて来ていることを感じさせます。本当ならば熱いメロス、旅人を捕まえて今の状況を聞きただしそうなものですが、弱い心を揺さぶられつつ立ち止まらない。「油断」という失敗を経験して成長したのでしょう。
「酒宴の長閑さとメロスの疾走感の対比」のご指摘、もっともで。太宰は対比が上手ですね。
そうですね、そもそもメロスは噂を信じたことから、王を殺しに行ったのですから。少しは成長したようです。