第百二段 ~恋が終わっても~

 昔、男ありけり。歌はよまざりけれど、世の中を思ひしりたりけり。あてなる女の、尼になりて、世の中を思ひうんじて、京にもあらず、はるかなる山里にすみけり。もとしぞくなりければ、よみてやりける、
 そむくとて雲には乗らぬものなれど世の憂きことぞよそになるてふ
となむいひやりける。斎宮の宮なり。


 昔、男がいた。歌は詠まなかったけれど、世情や人情を思い知っていた。高貴な女が、あまになって、世間をすっかり嫌になって、京にもおらず、遥かに離れた山里に住んだ。もともと、この女は男の親族(「しぞく」)だったので、歌を詠んで贈った、
〈世を背いて仏門に入ったからといって、仙人のように雲に乗って空を飛ぶ訳ではないにせよ、俗世間の嫌なことつらいこととは無関係に(「よそに」)なると言います。(今はさぞ清々しいお気持ちでしょうね。羨ましい限りです。)〉
と詠んで贈ったのだった。この女は斎宮を務めた宮様だ。
 この女は、第六十九段の斎宮である。その末路を語っている。女が出家した理由には様々有ったのだろう。しかし、斎宮であるのだから、若き日のあの恋が関わっているに違いない。恋に生きた女がたどり着いた姿である。それを親族の男が慰めている。
 この男は、あの男(業平)と同一人物として読むにはやや無理があるかもしれない。しかし、『伊勢物語』は、業平日記ではない。つまり、業平の一貫した人格を述べることがテーマではない。テーマは恋愛である。業平は、その代表的な題材としての人物である。したがって、一人の人間とすると矛盾が生じても問題にならない。
 とは言え、できる限り、同一人物として読みたい。あの男は、今でもこうして女の身を案じていると読むことができる。そうであれば、この段のテーマは、恋によって生まれた関係は形を変えても生涯続くということになる。なるほど、そうありたいものだ。 

コメント

  1. すいわ より:

    斎宮の身でありながら、道ならぬ恋に染まり大スキャンダルを起こした女、任が解かれた後も風当たりの強かった事でしょう。神に仕え、現世に居場所も無くし、仏の道を選ぶ事になるとは。神に背いた天女はたなびく雲の羽衣を掴み損ねて戻れない。それでもきっと、あの日恋した事を後悔はしていないのではないでしょうか。現世の時間をあの数日間で使い果たした、思い残す事はない、と。そうした女を思いやる歌を贈る男。恋の結末はどうであれ、大切な人を思う心の水脈は断たれる事なく、相手の心を潤し続けるのでしょうね。

    • 山川 信一 より:

      人は、数日間に人生のすべてを賭ける恋をすることがあります。そんな恋ができることは、損得では測ることができない幸せなのです。
      幸せを測る物差しは、別にあります。今は、その存在を知らない人が多くなりましたね。

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