第五十五段  実用的住居論

 家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へがたき事なり。深き水は涼しげなし。浅くて流れたる、遥かにすずし。こまかなる物を見るに、遣戸は蔀の間よりも明し。天井の高きは、冬寒く、灯暗し。造作は、用なき所をつくりたる、見るも面白く、万の用にも立ちてよしとぞ、人の定めあひ侍りし。

住まる:「る」は、可能とも取れるが、自発であろう。自ずからそうなると言うのだ。
遣戸:現在の引き戸。
蔀:板を張った格子戸。上下に二枚に分かれ、上半分は上から吊り、押し上げる。
さだめあひ:論じ合って結論を出す。

「家の作り方は、夏を主とすべきだ。冬はどんなところにも住める。暑い季節にふさわしくない住居は、堪え難いものだ。深い水は見て涼しげでない。浅くて流れている方が遥かに涼しい。細かな物を見るのに、遣戸は、蔀の部屋よりも明るい。天井が高いのは、冬寒く、明かりも暗くなる。建物は、用のない部屋を造ってあるのが、見た目も面白いし、様々な用にも立っていいと、人の評定がございました。」

実用的住居論である。京都は夏暑く冬寒い地域である。住居はそのどちらにも対応しなければならない。とは言え、当時の建築技術では、夏向きと冬向きとは両立しにくかったのだろう。そこでどちらかを採れと言われれば、夏を採るべきだと言うのだ。兼好にとって、京都の夏の暑さは堪え難かったのだろう。冬ならば、暖をとることができるし、着物を重ねて着ることができる。夏はそれができない。冷房は無いし、裸以上に脱ぎようがない。したがって、順当な意見だ。水を流すというのも、見た目だけでなく、実際に気温も下げてくれそうだ。一方、部屋が明るいのは、読書に都合がいい。明るさも重要である。遣戸は、開ければ、蔀より明るいので、見た目より機能を重視している。天井が高いのも嫌っている。暗く寒くなるからである。ただし、これは知識人としての都合である。一般人は、冬の寒さの方が気になったかもしれない。
しかし、以上は当時の事情に寄る。現代では、そのまま通用しないだろう。夏冬のどちらにも対応する省エネ住宅が求められるからである。とは言え、用途をはっきり持たせない部屋を造って置くべきだと言うのは参考になる。何にでも機能を持たせるという考え方は、合理的ではあるが、一面的で窮屈である。フレキシビリティに欠ける。たとえば、箸はナイフにもフォークにもスプーンにもなるではないか。現代人が忘れているのは、こうした無用の用という考え方である。兼好は、住居についても老荘思想に沿った考え方をしている。

コメント

  1. すいわ より:

    今の時代に兼好がいたら、SNSで日々様々なことを発信していたのでしょうね。本当にあらゆる事、その時々に目にした事、感じたことを書き連ねています。今回は住まいについての考察。木造家屋についてはほぼ的を射た指摘のように思えます。「無用の用」、なるほど古来からの日本的発想です。生花とフラワーアレンジメント、同じ花飾りだけれど、生花は空間を重視しますよね。庭園然り。無用の無は無駄の無ではないのです。その感覚をもう一度、現代こそ見つめ直す必要があるように思います。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、『徒然草』はSNSの魁ですね。現代ならきっと多くのフォロワーを得ていることでしょう。話題豊富で面白いもの。
      現代は、意味で埋め尽くされています。たとえば、空き地が無くなりました。ぼーっとしている時間もありません。意味に埋め尽くされた現代。無用の用を思い出すべきですね。
      「家のつくりやうは夏をむねとすべし」は、現代でも木造建築の常識になっています。兼好恐るべしです。しかし、兼好が敢えてこう言ったのは当時の一般人の常識に反していたからではないでしょうか。本当は、《夏はいかなる所にも住まる》です。冬はそうはいきません。
      この記述は、頭を使う知識人に向けたものです。知的作業に暑さは堪えられません。兼好が誰に向かって書いているかがわかります。

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