題しらす をののこまち
いまはとてわかみしくれにふりぬれはことのはさへにうつろひにけり (782)
今はとて我が身時雨にふりぬれば言の葉さへにうつろひにけり
「題知らず 小野小町
もうこれきりと、私の身が時雨に古くなってしまったから、言葉までもが変わってしまった。」
「ふりぬれば」の「ふり」は、「降り」と「古り」の掛詞。「ぬれ」は、動詞「濡る」の已然形と完了の助動詞「ぬ」の已然形の掛詞。「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「さへに」は、副助詞で添加を表す。「(うつろひ)にけり」の「に」は、助動詞「ぬ」の連用形で完了を表す。「けり」は、助動詞「けり」の終止形で詠嘆を表す。
もうこれで終わりだということでしょうか、私の身が折からの時雨に木々が濡れるように涙で濡れてすっかり古くなってしまったから、木の葉の色が変わるばかりでなく、あなたの言の葉までも変わってしまい、頼りにならないものになってしまいました。
時雨の降る季節を背景にして、相手の不実を訴えている。小町は、雨を題材にする歌が得意だったようだ。「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」(113)を連想する。(113)の歌は春の歌であるが、この歌は季節を秋に変えた恋バージョンである。雨は、男の足を遠退かせる。そのため、恋する女は雨に敏感になるに違いない。この歌は、そんな女心を捉えている。編集者は、季節に人事を重ね掛詞を駆使した表現を評価したのだろう。
コメント
移ろうのは季節ばかりではないのね、冷たい時雨が降って木々の葉が色付き変わるように貴方の言の葉もわたしの悲しみの涙で枯れ朽ちて味気なくなってしまいました、、。時雨で秋が深まり美しく紅葉する様を二人で眺めた時もあったというのに、貴方の足が遠退いて涙する私の時雨は貴方の愛の言の葉を色褪せさせる。
「私が歳をとって容貌が色褪せてしまったから貴方はこれっきりというのね」かと思いきや「たかが時雨くらいで足止めされて、私を蔑ろにして泣かせようなんて!」なのか?
冒頭の「いまはとて」が強い。さて、これは言われた言葉?それとも、、。小町は男を走らせるのが上手い。
小町の心が見事に捉えられていますね。すいわさんに小町が乗り移ったようです。これでは男は心を動かさずにはいられません。小町は、男心をよく知っています。確かに「いまはとて」が利いていますね。
小町は、「我が身時雨にふりぬれば」や「我が身世にふる」など、自身がは年齢を重ねて魅力が衰えてしまった、という内容が含まれている歌をよく詠みますね。当時は、女性は若い方が価値がある という考え方だったでしょうか。小町ほどの人であれば、歌で嘆いたのは建前で、(女性も男性も)年齢を重ねてこその魅力がある事は、わかっていたはずですよね。
魅力は年齢じゃないと思っていても、一応もう年なので謙って見せているのでしょう。この思いは押し付けるのではありませんからね。