《河を見ての推定》

題しらす 読人しらす

このかはにもみちはなかるおくやまのゆきけのみつそいままさるらし(320)

この河に紅葉葉流る奥山の雪げの水ぞ今勝るらし

「この河に紅葉葉が流れる。奥山の雪解けの水が今増しているらしい。」

「紅葉葉流る」で切れる。ここまでが「らし」の根拠になっている。「水ぞ」の「ぞ」は、係助詞で強調を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「勝るらし」の「らし」は、助動詞「らし」の連体形で、推定を表す。
眼前の河に紅葉葉が流れている。その葉は、奥山から流れてきたらしい。なぜなら、端山の紅葉葉はもう流れ尽くしてしまったからだ。奥山ではもう雪が降り始めたようだ。だが、その雪は積もることなく、直ぐに溶けてしまったのだろう。だから、散り残っていた紅葉葉をここまで流したのだ。それほど、奥山の雪解けによる水かさが今いつもより増しているらしい。
前の歌と同様に、初冬の、奥山に雪が降っても直ぐに溶けてしまう、短い一時期の季節感を詠んでいる。実に繊細な捉え方である。ただし、その捉え方は前の歌と対照的である。奥山の雪解けを推定している点では同じだが、異なる点がある。前の歌では作者が家の中にいる。それに対して、この歌では、「この河」とあるように、作者は外にいて実際に河を見ている。この日は前の歌ほどは寒い日ではなかったのだろう。作者は散歩に出たようだ。そして、河の異変から奥山の雪解けを推定したのだ。つまり、前の歌が聴覚による推定であるのに対して、この歌は視覚による推定である。
編者は、聴覚と視覚による推定を並べることによって、対照的な人間の心の働きを示したのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    なるほど、この歌では前の歌と同じ情景を視覚的に捉えているのですね。でも、聴覚のみで捉えた方が寒さがより痛く突き刺さるような感じがするのは、やはり聴覚が研ぎ澄まされる冬のイメージからでしょうか。
    作者は、冬が始まって寒くて外に出られなかったけれど、寒さが僅かに緩んだこのタイミングに散歩に出たのでしょうね。奥山に残っていた最後の紅葉も流れて、これからは本格的な冬が始まる、その覚悟が出来たでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      寒くて外に出たくないから耳を澄ませて、外の様子を山奥まで想像する。寒さが緩んだので外出し、流れる紅葉を見て、雪解けの水が勝っているのを知る。ちゃんと辻褄が合っていますね。どちらも冬にあり得る行動です。

  2. すいわ より:

    「この川」「今勝るらし」で川のほとりに実際に立って水嵩の増えた水面から山の頂へ視線を移す様子が思い浮かびます。その川に名残の紅葉葉が流れて来る。山と川がまったく別個のものとして存在しているのでなく、それぞれがそれぞれと関わっているのと同様に、季節も一続きである事を紅葉葉が象徴しているようです。
    それにしても、前の歌でも思ったのですが、春先に気温が上がって来て寝雪が溶けて水嵩が増すという感覚はありましたが、降り始めの雪が降るそばから溶け、その僅かな雪の分で水量が増している、と見る観察眼には驚かされました。

    • 山川 信一 より:

      季節も場所も一続き、それを象徴するのが流れる紅葉。確かにそうですね。
      春の雪解けで水嵩が増すのは常識。冬の降り始めの雪が溶けて水嵩が増すことこそ詩的発見なのですね。

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