《恋の選択権》

題しらす もとかた

ひとはいさわれはなきなのをしけれはむかしもいまもしらすとをいはむ (630)

人はいさ我は無き名の惜しければ昔も今も知らずとを言はむ

「題知らず 元方
人はさあ、私は無き名が惜しいので、昔も今も知らないと言おう。」

「(惜しけれ)ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「(知ら)ずとを」は、打消の助動詞「ず」の終止形。「と」は、格助詞で引用を表す。「を」は、間投助詞で詠嘆を表す。「(言は)む」は、意志の助動詞「む」の終止形。
あなたは、さあ、どうか知りませんが、私は身に覚えのない噂を立てられて、評判が落ちるのが惜しいので、何を聞かれても、昔も今もあなたのことは知らないと言うつもりです。
この歌には嘘が含まれている。この歌を贈っているのだから、相手を「昔も今も知ら」ないはずがない。なるほど、まだ実際に逢ってはいないのだろう。しかし、歌を贈るなどして、逢はんばかりになっていたに違いない。そこで立てられた噂だろう。火の無いところに煙は立たないのだ。相手は逢う気になっていたはずだ。作者には、その確信がある。そこで、「無き名」が惜しいとは言っているけれど、「有る名」が惜しいとは言っていない。だから、「今後はあなた次第ですよ。」と相手に恋の選択権を預けているのである。
前の歌とは「無き名」繋がりである。身に覚えのない評判に悩まされるのは昔も今も変わらない。しかし、それに悩まされているばかりでは芸が無い。これをこんな風に利用することもできるのだ。編集者は、機知を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    あなたはどうあれ、私は噂を流されるのは迷惑なので、「あなたとは今に至るまで関わりあった事がない」と言っておこう、、一見、噂に振り回されることを忌避して相手を突き放しているようにも思える歌ですが、、
    勝手な推測で私たちの仲をあれこれ言われるのは心外だよね。だから空惚けて「いや、それ誰のこと?知らないなぁ」って言っておくよ。本当のことは私たち二人しか知らないのだから、、当事者には歌の本音が分かる仕掛けになっているのですね。面白い。

    • 山川 信一 より:

      まるで「共犯者」になろうと言っているみたいですね。私の言いたいことはおわかりですよねと言って。

  2. まりりん より:

    勝手に噂を立てられてとやかく言われるのは悔しいから、いっそのこと事実にしてしまいませんか、と相手を誘っている様にも思えます。そして、相手もその提案を受けてくれるであろうという自信のようなものも感じます。

    • 山川 信一 より:

      これは自信があるからこその物言いですよね。モテない男には決して言えないセリフです。一度くらい言ってみたかったなあ。

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