題しらす 読人しらす
こころかへするものにもかかたこひはくるしきものとひとにしらせむ (540)
心替えするものにもが片恋は苦しきものと人に知らせむ
「心は替えられるものであってほしい。片恋は苦しいものと人に知らせよう。」
「(もの)にもが」の「に」は、断定の助動詞「なり」の連用形。「もが」は、願望の終助詞。「(知ら)せむ」の「せ」は、使役の助動詞「す」の未然形。「む」は、意志の助動詞「む」の終止形。
他人と心を取り替えることができるものだったらなあ。もしそうなら、私の片恋の心をあの人の心と取り替えよう。そうしたら、それがどれほど苦しいものかを伝えることができるだろうに。
心そのものは、どうしたって同じになりようがない。人それぞれのものだ。だから、片思いでどれほど苦しくても、相手にはなかなかわかってもらえない。だから、心を取り替え得ることができればと願いたくもなる。もちろん、それは不可能なことはわかっている。しかし、その思いを歌にすることで、少しは想像してもらえるかもしれない。作者はそう信じてこの歌を作った。
前の歌は山彦が題材であったけれど、最後は「思ふ」で終わっている。つまり、心理であるので、この歌とは心理繋がりである。言われてみれば、片恋で心を取り替えることができればと願うのも普遍的な心理である。編集者はその発見を評価したのだろう。
コメント
「人にしらせむ」、思っているだけでは辛いばかりで気付いてすらもらえない。片恋の相手にこちらの存在を認識させるべくこの歌を贈る。私の心と入れ替えてしまえたら、苦しいほどの私の胸の痛みをあなたは感じ取る事が出来るでしょう?と。それとも入れ替わって私の目から見たあなたがいかに冷たい態度を取っているのか自身の目で確かめてご覧なさい、と言うことなのか。『君の名は。』ではないけれど、人間の器の入れ替わりという発想、こんなに時を隔てた人も同じように考えていた事が面白いです。
なるほど、『君の名は。』に繋がるのですね。そう考えると、『古今和歌集』は発想の宝庫ですね。現代の新しく思える発想も実はここに集められていました。特に、「詠み人知らず」の古歌は、普遍的な発想を並べ上げているようです。「詠み人知らず」の古歌にそういう役割を持たせているのでしょう。そして、恋二からは、ここから一歩踏み出した個人の歌が始まります。
「心を取り替える」という発想が斬新です。恋に限らず、こちらの思いがなかなか相手に伝わらない時、心を相手と取り替えることが出来れば確かに便利ですね。
前の歌もそうでしたが、片恋の一方通行の恋は、虚しさが募ってきて辛いですよね。
片恋にある人は一体どう思うのか、その普遍性を追求しているみたいです。そして、その上で不可能性を解消するために歌が何ができるのかを追求しています。この歌もその試みの一つです。