《精神分析》

題しらす もとかた(元方)

たよりにもあらぬおもひのあやしきはこころをひとにつくるなりけり (480)

便りにもあらぬ思ひのあやしきは心を人に着くるなりけり

「使者でもない思いが不思議なのは、心を人に着けることであったなあ。」

「(あら)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「なりけり」も「なり」は、断定の助動詞「なり」の連用形。「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。
私の思いは、物を届ける使者ではありません。それなのに、まるで使者のようです。その不思議さは、私の心をあなたの心に届けることにあったのですよ。私の心はあなたの所にばかり行っているのですから。
作者は「思ひ」と「心」を区別して使っている。「思ひ」と「心」は、別の精神作用であるとする。人を恋するのが「心」であって、それを相手に届けるのが「思ひ」であると言う。なるほど、そう言われてみれば、二つは別の精神作用である。だから、別の語で表されている。つまり、人を恋するとは、人を恋する「心」を「思ひ」が人に届けることであったのだ。普段何となく、この二つを混同して使っていたことに気づかされる。作者がこのことに気が付いたのは、恋をしているからである。恋をするとは、繰り返し繰り返し、自分の精神をこんな風に分析して捉える精神作用なのである。
さて、この歌が恋する女に贈られたとすると、女はどう思っただろう。少なくとも、作者の頭のよさと誠意だけは受け止めたに違いない。

コメント

  1. まりりん より:

    「心」と「思い」を区別する。確かに普段は二つを混同して使っています。違いが咄嗟には分かりませんでした。この場合、相手に「自分は貴女に恋をしています」という気持ちが伝わって初めて人を恋することになる? つまり、告白することが前提?
    どうも解釈が難しいです。贈られた女性は、それ相応に頭の良い人だったでしょうか。そうでないと、歌の真意を理解できなかったかも。。理屈っぽいと思われてしまったかも知れません。

    • 山川 信一 より:

      恋は自分の「心」に生じ、「思ひ」は、それを相手に届けること。「『思ひ』が使者となり、日々『(恋)心』をせっせとあなたのところに運んでいます。だから、『心』は、あなたの上にばかり行っています。それに気が付きませんか?」といった感じです。

  2. すいわ より:

    なるほど言われてみれば「心(思う)」はどちらかと言えば内向きの、自分のうちに作用することがほとんどなのに、「思い」になると自分ではない対象に矢印が向きます。自分の意思(理性)でその方向を変えられないまま、「思い」という書簡は無意識に貴女の元へ届けられてしまう。冷静な分析のようでいて「貴女にだけ」作用する思いの強さ、、でも、まりりんさんも仰るように伝わりづらいかもしれません。

    • 山川 信一 より:

      この歌を読むと、『古今和歌集』の斬新さを改めて思わされます。『古今和歌集』は、少しも古くありません。当時の前衛和歌だったのかも知れません。「思ひ」と「心」の違いなど、現代短歌に出てきてもおかしくありません。今の短歌には、こうした挑戦はなされているのでしょうか。むしろ、『古今和歌集』の方が新しさを追求しているのではないでしょうか。この歌は、女心を摑むためと言うよりは、その斬新さが目的だったのでしょう。とは言え、女はこうした試みを嫌うものでもありません。それが他ならぬ自分に向けられたのであれば、むしろ喜んだのではないでしょうか?

      • すいわ より:

        私はこういう考え方を持っている所に好感を持ちます。目の付け所に「なるほど!」と思って話してみたくなります。

        • 山川 信一 より:

          やはりそうでしたか。それが自分に向けられたものなら尚更でしょう。自分が特別だと思わせてくれるからです。

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