これさたのみこの家の歌合のうた たたみね
かみなひのみむろのやまをあきゆけはにしきたちきるここちこそすれ (296)
神奈備の御室の山を秋行けば錦裁ち切る心地こそすれ
「神が鎮座する御室の山を秋に行くと、錦を裁ち切る心地がするが・・・。」
「行けば」の「ば」は、接続助詞で偶然的条件を表す。「たまたま・・・したところ」の意。「心地こそすれ」の「こそ」は、係助詞で強調を表し、係り結びとして働き、文末を已然形にする。以下に逆接で繋げる。「すれ」は、サ変動詞「す」の已然形。
ここは神が鎮座する御室の山だ。その神聖な山に秋に分け入って行くと、山の紅葉が錦のように美しい。進むと、まるで錦を裁ち切るような気分になる。畏れ多くもあるが、一方でこの美しさの中に包まれて何ともいい気分だ。
作者は、神の鎮座する御室の山に分け入る。すると、その紅葉を自分が裁ち切るような心持ちになる。それで、自分にそんな資格があるのかと畏まりながらも、自分が秋の一部になったようでいい心持ちになった。こうして、秋との一体感を感じているのである。
コメント
「たつたかはもみちみたれてなかるめりわたらはにしきなかやたえなむ 」は川の流れ、こちらは山の錦。
神の山へ立ち入る事でさへ畏れ多いと言うのに、自分の通った足跡が見事なまでの紅葉の錦を裁ち切ってしまう。でも、、。秋の中に溶け込みたい、神の領域を侵してはならない、振り子のように揺れ惑う気持ちを「こそ」で表現できるのですね。毎度の事ながらこうした言葉の細部の使い方に驚きと感動を覚えます。
作者は、明らかに283番のこの歌を踏まえて作っています。編者もそれを意識していますね。「秋の中に溶け込みたい、神の領域を侵してはならない、振り子のように揺れ惑う気持ち」はいい捉え方ですね。
こうした裏腹な思いを「こそ」で表現していますね。
錦を裁ち切る、か では、こう返すか、、
秋深し 御室の山で背にかづく 錦神より賜りしかな
秋が深まる頃、神がやどる御室山に入っていくと紅葉が真っ盛りで、まるで紅葉の錦を身に纏っているような錯覚を覚える。この錦の衣装はきっと(この山に宿る)神様からの贈り物であろう。嬉しくて心浮き立ってくる。
先生、いかがでしょう?(笑)
お上手な歌ですね。錦のように美しい紅葉が見えてきます。神奈備の御室の山なら、このような思いも抱きそうです。
ただ元歌に比べると、一方通行です。作者が一方的に思いを述べただけです。読み手とのコミュニケーションにやや欠けます。
とは言え、『古今和歌集』と比べてのことです。これはこれで、とてもお上手な歌です。
色とりどりの紅葉を錦の織物とは素敵ですね。美しくてうっとりしました。
そこをずんずん分け入っていく自分がハサミみたいで。ああ切っちゃった。
溶け込めたらよかったんですけどね。って感じですか。
「こそ・・・すれ」ですから、裁ち切ってしまったに伴う感情とは、反対の感情です。ならば、プラスの感情になります。「溶け込めたらよかったんですけどね。」だとマイナスのままです。ここは、溶け込めたというプラスの感情でしょう。
まりりんさんの歌、秋の山を心楽しく満喫している風情が明るくて素敵ですね。衣に落葉が付いて刺繍で彩られたような、まさに錦繍。目の前に鮮やかな紅葉の風景が広がるようです。
和歌を読む楽しみ方を提案してもらいました。鑑賞を発展させて歌を作るのは、凄くいいですね。
一椛追い 分け入り惑う御室山
竜田の姫の裳裾飜りて
楓に魅せられてうっかり神域に入ってしまった、ヒラヒラと舞う落葉は竜田姫の纏う錦。風に翻り、、そして道を見失う。 うーん、真似してみたくなったのですが、難しいですね。
早速、試みてみたのですね。いいと思ったことはやってみる。素敵な姿勢です。ただ、無理に作ることはありません。鑑賞で満足することもあります。創作はそれで満足できないから為されます。
とは言え、とにかくやってみることは悪いことではありません。何が足りないかがわかってきます。さて、この歌ですが、動詞が多すぎるようです。「追い」「分け」「入り」「惑う」「翻りて」と5つ(4つ)もあります。動詞が多いと、読み手が焦点を絞りにくくなります。減らすようにしましょう。
もっとも、源実朝の「大海の磯もとどろによする波われて砕けて裂けて散るかも」は、敢えてそれに逆らっているようです。
ありがとうございます。ほんの気まぐれに、遊んでみただけなのです。それが、不思議とその作業が楽しくて、、しばらくマイブームになりそうな予感がします。
マイブームが長く続きますように。楽しみにしています。