《恋を連想させる花》

朱雀院のをみなへしあはせによみてたてまつりける たたみね

ひとりのみなかむるよりはをみなへしわかすむやとにうゑてみましを (236)

一人のみながむるよりは女郎花我が住む宿に植ゑて見ましを

「朱雀院の女郎花合わせに詠んで、献上した  忠岑
自分一人だけで思いに沈んで眺めるよりは、女郎花、お前を我が住む宿に植えて見たいのに。」

「女郎花」が意味の上で上下に掛かっている。つまり、「ながむる」対象であり、「うゑてみ」る対象になっている。「みましを」の「まし」は反実仮想の助動詞の連体形。「を」は接続助詞で逆接を表す。
野に咲く女郎花を眺めていると、物思いに沈んでしまう。手の届かない女性に恋する自分を思ってしまうからだ。もちろん、女郎花は、自分の家の庭に植え替えて見ることはできる。しかし、女性はそうはいかない。自分の家に連れて来て、愛し合うことは到底叶わない。女郎花は、そうした自分の恋を思わずには見ることができない花なのだ。
この歌の眼目は、反実仮想の助動詞「まし」を使っていることにある。女郎花なら、植えて見ることは十分に可能である。それなのに、敢えて反実仮想の助動詞を使っているからだ。それは、作者が手の届かない女性を心に置いて言っていることを詠み手に伝えるためである。そして、それこそが女郎花の花としての特性なのだ。女郎花は、女性を意識することなく眺めることができない花なのだと言いたいのだ。

コメント

  1. すいわ より:

    こんな風に訪ね来て眺めているだけでなく、いつでも手の届く所に置いて私だけのものとして独り占めしたい、でも、、。
    愛玩する草花なら、ためらう必要なく植え替えればいい。でも、その願望があっても、ひとりの女性として見立てて我が家に住まわせることができない、という事は、、。「みましを」で女郎花がどういう対象かと言うことが見て取れるのですね。可憐でずっと愛でていたいけれど妻として迎え入れる事の出来ない「女」。この寄る辺の無い儚さにまた、心惹かれてしまうのでしょうね。

    • 山川 信一 より:

      当時の貴族の男なら、「可憐でずっと愛でていたいけれど妻として迎え入れる事の出来ない「女」」の一人や二人はいたはず。そこで、女郎花は、そういう女を連想させる花だと言うのです。
      こう言うことで、読み手はなるほどそうだなあと共感したに違いありません。

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