郭公のはしめてなきけるをききてよめる そせい
ほとときすはつこゑきけはあちきなくぬしさたまらぬこひせらるはた (143)
郭公初声聞けばあぢきなく主定まらぬ恋せらるはた
「郭公が初めて鳴いたのを聞いて詠んだ 素性
郭公よ、お前の初声を聞くと、甲斐も無く誰と相手の決まらない恋をさせられる、また。」
初句の「郭公」は、軽い呼びかけである。「聞けば」は、「聞く」の已然形+接続助詞「ば」で、確定条件を表す。〈聞くと〉の意。「恋せらる」の「らる」は、受身の助動詞。「はた」は、副詞で、倒置になっていて「恋せらる」に掛かる。
郭公の初声を耳にし、心惹かれる。しかし、どこで鳴いているのか、目をこらして探すがその姿は見えない。この先も、また、いたずらに心動かされるだけで、どうにもならない、相手の定まらない思いをすることになる、そんな予感がする。
作者は、郭公の初声を聞き、郭公への思いをどう表現しようかと思う。直接表現することは難しい。そこで似ているものを探す。それが「主定まらぬ恋」であった。その思いとは、相手が誰ともわからずに恋をしてしまった時の、あの頼りなく甲斐のないもどかしさなのだと。
この歌は、場面を変えれば、恋の歌にもなる。つまり、逆に郭公への思いが恋のたとえにもなるのだ。どちらからも読める歌である。ルビンの壺を思わせる。
コメント
郭公の初声を聞いて心躍らせる。その姿を確認する事なく、この「ときめき」をまた次の鳴き声に期待する。それほどに郭公が鳴く事を切望、それが辛い苦しい夏だとしても。
初恋に心躍らせる。それが恋と確認する事なく、この「ときめき」を、次の恋に期待する。それほどに恋人に巡り合うことを切望、それが辛く苦しい恋だとしても。
ないているのは誰?郭公(君)?私?
そしてまた、、抜け出せない。
なるほどルビンの壺ですね。
なるほど、郭公への思いと恋する相手への思いとがパラレルになりますね。ただし、同時には成り立たない。ルビンの壺です。
ここに〈ある名付けられないもの〉があるとします。そこでそれを〈あるもの〉にたとえます。ところが、その〈あるもの〉もはっきりしない。逆に、それを元の〈ある名付けられないもの〉が説明する。そういった理解が存在します。
貫之はそれを具体的に指摘したことにこの表現の独自性を感じたのでしょう。