春の歌とてよめる そせい
おもふとちはるのやまへにうちむれてそこともいはぬたひねしてしか (126)
思ふどち春の山辺にうち群れてそことも言はぬ旅寝してしが
「春の歌といって詠んだ 素性法師
親しい者どうし春の山のほとりに群がって、どこに泊まるとも決めていない旅寝をしたいものだ。」
「どち」は、「・・・仲間」「・・・どうし」の意を添える接尾語。「そことも言はぬ」は、「そこと特定しない」の意。「興のままに歩き回って、行き当たりばったりの」ということ。「旅寝」は、家を離れて寝ることで、本格的な旅行とは限らない。「てしが」願望の終助詞。「・・・したいものだ」の意。
春も深まり一層暖かくなる。もう夜でも寒くはあるまいと感じさせる頃、気の合う仲間と誘い合い、春の山に繰り出し、行き当たりばったりの旅寝がしたい、そんな春の華やいだ浮かれ気分を歌った。
貫之が和歌を人の心を繋ぐためのものと考えていたとすれば、まさにその目的にふさわしい和歌である。これは誰しもが共感する季節感である。読んだ人は「人の心が一つ」であることを感じることができ、連帯感が生まれる。
コメント
これは共感できる歌ですね。私もそうしたいと思っちゃいました。いいなあと。
毎日寒いので、やはり、こんな春の夜ならすごくいいなあ、待ち遠しいなあと再度思わせられました。
コロナ禍の今にあっては、一層そう思えますね。春の訪れと共に、コロナ感染者も減って欲しいですね。
そして、春の終わりの頃には、こんな旅寝ができますように。
気の置けない友との行き先も定まらない足の向くままの旅。温んだ小川の流れのような穏やかさに身を任せて心もほぐれていくようです。
「てしが」が願望の終助詞、その前の「旅寝し」の「し」は「旅寝す」ですか?強意の副助詞の「し」と取ってしまって、「気ままな旅に出掛けたいのに出掛けられない」のだと思ってしまいました。
「駒並めていざ見に行かむ古里は雪とのみこそ花は散るらめ」はポスターのように外向きに呼びかけられていたのに対して、この歌は心の内側を表現していて、でも確かに誰もが共感出来る、真っ直ぐに心に響く歌だと思いました。
様々なタイプの歌が織り交ぜてあります。貫之の編集が利いていますね。この歌を読むと、何だか癒やされるような来さえしてきます。
「てしが」は今は使わない終助詞です。語感からピンときませんね。「旅寝し」は「旅寝す」の連用形です。
「駒並めて」の歌と対照的ですね。あの歌の雄々しさが感じられない分、普遍的な思いになっています。