あらたまのとしの三年を待ちわびてただ今宵こそ新枕すれ
といひいだしたりければ、
しかし、女の歌には、甘さがある。もっと言えば、優柔不断である。
「あらたまの」は「とし」に掛かる枕詞である。そして、「あらたまのとしの」が「三年」の序詞になっている。枕詞や序詞は一種に飾りである。女は「三年」を二重に飾ったのである。なぜか。それは、女にとってこの三年が特別だったことを言いたかったからだ。女はこの三年がいかに長く寂しくつらく不安だったかを男に訴えているのだ。直接言うのではなく、序詞で男の想像力に訴えている。
〈私はあなたのいないつらくて長い三年、あなたを待ちわびていたのです。〉
そう言いたいのだ。枕詞と序詞でそれを伝えている。いい表現とは、想像力を刺激する表現である。言い尽くしてしまったように感じさせる表現はダメな表現である。たとえば、高安の女の二番目の歌のように。その点、この歌は成功している。片田舎の女としては上出来である。
「今宵こそ新枕すれ」は、〈こそ・・・已然形〉の係り結びが使ってある。〈こそ・・・已然形〉は下の文に逆接でつながっていく。女は〈今夜新枕する〉と言い切りたくなかった。そこで言葉を濁している。「今宵こそ新枕すれ」を〈今宵にぞ新枕する〉と比べてみると、気持ちの違いがよくわかる。女はためらっている。それで、男の反応を伺っている。「ただ」にその思いがよく表れている。「ただ」とは、〈それ以外に選択肢がなく〉という意味である。
〈三年間あなたを待ちわびて、それ以外選択肢がなく仕方なくて、今夜新枕することになったのだけれど・・・〉という思いである。女は自分の立場を男にわかって欲しかったのだ。けれど、自分自身の意志ははっきり示していない。女は嘘はついていない。正直に自分の思いを述べている。ただし、判断を男に委ねたのだ。これが、先に言った女の優柔不断さである。女の立場に立てばやむを得ない気もするのだけれども。
コメント
きっと当時の3年は今にしてみたら10年くらいの時間感覚だったかもしれません。10年音信不通、、、恨み言の一つも言いたくなる気持ちも分かりますが、本当に待ち侘びた人の帰りを喜ぶ気持ちが伝えられたらいいのに。正直である事は時として人を傷つける。自己満足のための正直だとしたら、それは誠実だと言えるものなのか。後ろめたさがある分、煮え切らない言い方をして、寧ろ、相手を深く傷つけて。泣く泣く送り、送り出された2人なら、会えない時間の寂しさは男も同等であるはずですよね。男にしてみれば、聞きたかったのは言い訳ではなく、労わりの言葉だったでしょうに。
言葉はこわい。そもそも、自分の思いを自覚することが難しい。その上、それを的確に伝えることが難しい。さらに、相手がどう受け止めるかもわからない。この女も、最初の段階から不十分だったのでしょう。そして、枕詞・序詞が自らのつらさを訴える自分本位のものとして男に伝わってしまいました。ただ、歌としてはいい出来なのではないでしょうか?これはこれで女の本当の思いを表しています。