第七十六段    法師は人に疎くあれ

 世の覚え華やかなるあたりに、嘆きも喜びもありて、人多く行き訪ふ中に、聖法師のまじりて、言ひ入れたたずみたるこそ、さらずともと見ゆれ、さるべき故ありとも、法師は人にうとくてありなん。

世の覚え:世間の評判。
聖法師:民間にあって仏道を修行する人。修行僧。
さるべき:しかるべき。適切な。相当な。ふさわしい。
(あり)なむ:・・・方がいい。・・・であるべきだ。

「世間の評判が盛んな家などに、ご不幸やお祝い事もあって、人が多く出入りする中に、聖法師が混じって、案内を請うて戸口に佇んでいるのは、あんなことをしなくてもと見えるが、たとえ、それ相応のわけがあるにしても、法師は人に疎遠であるのがよい。」

法師が羽振りのいい家の葬儀や慶事に関わることを戒めている。取り入って、おこぼれを頂戴しようという卑しい魂胆が透けているからである。俗事に関われば、必ず欲得の心が生じ、仏道修行の妨げになる。こうした法師が多く、兼好の目に余ったのだろう。
これを読むと、前段も法師に向かって言っていることが一層明らかになる。『徒然草』は、第一に法師を読み手としていたことがわかる。
ただ、この話は現代の我々にも参考になる。こうした法師の堕落が今に続いているからだ。現代人は信仰心が乏しい。そのため、現代のお寺は、仏教の教えよりも、寺社経営に心を砕くようになる。たとえば、戒名やお布施でいかに収入を得るかに苦心している。その結果、人々は更に信仰心を持たなくなる。こうした悪循環に陥っている。いつの世も、宗教は堕落しやすいのである。寺とのつきあい方は難しい。

コメント

  1. すいわ より:

    信仰の扱いって難しいです。形の無いものだから尚のこと一般人には分かりにくい。この曖昧さに付け込む法師、兼好は許せないのでしょうね。信仰が商売になった段階でそれは信仰とはかけ離れたものになってしまう。昔は「医者・教師・僧侶」は限られた人がなることのできる職業で、小さなコミュニティでは中身の伴う「権威」だったようですが、教育を皆が受けられるようになった現代、その技術を一般人が判断しにくい「僧侶」の立ち位置は当時以上に曖昧なのではないでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      信仰の薄れた現代では、寺社の経営は当時以上に難しいでしょう。寺じまいも進むわけです。
      医師には社会的ステータスと高収入が保証されています。それでも、欲に目の眩んだ医師もいます。教師は、気の利いたものは塾に行き、学校にはデモしか教師が残ることになります。何か変です。
      これを解決するためには、グローバル化を推し進めるよりも、小さなコミュニティを大事にすべきかも知れません。

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