《春雨は涙》

題しらす  一本 大伴黒主

はるさめのふるはなみたかさくらはなちるををしまぬひとしなけれは (88)

春雨の降るは涙か桜花散るを惜しまぬ人し無ければ

一本:ある書物。
(人)し:強意の副助詞。

「春雨が降るのは人の涙であろうかなあ。桜の花が散るのを惜しまない人などいないから。」

春雨の降る中を桜が散っている。暖かな春雨も落花を更に寂しく見せる。人々はそれを見て一層悲しい気持ちになる。そこで、春雨は、桜が散るのを惜しむ心が降らせた涙なのかと詠嘆を伴う疑問を懐く。
作者の黒主の歌は、仮名序の中で貫之に次のように評されている。「そのさまいやし。いはば、たきぎおへる山人の、花のかげにやすめるがごとし。」これを手掛かりにして鑑賞すると、その疑問に下の句で自ら根拠を挙げて答えていることが気になる。これは言わなくてもわかる。情景は美しいが、表現が露骨で台無しになっていると言えば言えそうである。

コメント

  1. すいわ より:

    わかりやすいと言えばわかりやすいのでしょうけれど、くどい、という事なのでしょうか。風景写真の展示を見ていて、横からああだ、こうだ、と蘊蓄を聞かされているような。だから歌だけれど「一本」と敢えて詞書きに記されているのでしょうか。余白があればこそ引き立つものもありますよね。

    • 山川 信一 より:

      『古今和歌集』だけではありませんが、古典の原本はほとんど残っていません。今残っているのは、藤原定家が校訂したものの写しです。例外が『土佐日記』です。
      ですから、この歌の作者については、「一本」(=ある本)には、大伴黒主とあると言うのです。これは伝本を書き写した人のコメントです。
      私は、仮名序の評価を頼りに一応鑑賞してみました。『古今和歌集』に「駄歌無し」と言うのが作業仮説です。それに従えば、何か見落としているかも知れません。

  2. らん より:

    うわあ、この歌はいやしと評されるのですか。厳しいなあ。
    露骨はだめか。いやしと言われちゃう。
    ふわっと想像するような感じを出さないとだめなんですね。
    歌は難しいですね。

    • 山川 信一 より:

      貫之による大友黒主の歌の評価が「そのさまいやし」なので、こう読みました。しかし、果たしてこの歌に当てはまるかどうかは、何とも言えません。
      一応それに沿って鑑賞してみたまでです。何か見落としているのかも知れません。更に考えてみます。
      春雨を涙と言ったまでは、問題無いでしょう。問題は、その理由を述べたことにあります。貫之なら別の考えがあったのかもしれません。

  3. すいわ より:

    「やまたかみみつつわかこしさくらはなかせはこころにまかすへらなり」
    「さくらはなちりぬるかせのなこりにはみつなきそらになみそたちける 」
    貫之の、この二つの歌の間に黒主の歌を置いたのですよね。
    印象派の絵画の間に写実主義の作品を置いたような感じとでも言うのでしょうか、この三作品に臨んだ自分を振り返ると、黒主の歌は一度読んでその情景のままを受け取る、下の句で「これはこういう訳だから」とまで詠まれると、そこからイメージを広げる余地がない。どんなに綺麗に写したとしても、言葉は完全ではないから「真」にはなり得ない。
    一方、貫之の歌は何度も声に出して読んでみて、読む度に歌の中を心地よく逍遥する感覚を味わいました。
    写実の良さ、というのもあるのは確かで、でも、貫之の目指す所の理想とは方向性が違う。だから敢えて並べ置く事でそのコントラストを体感させたかったのではと思いました。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、素晴らしい鑑賞です。納得しました。貫之の表現力、作歌力は群を抜いていたのでしょう。それをどう並べるか、工夫が要ったのでしょう。
      黒主の歌は、「そりゃそうだよね」といった平凡な歌。想像力を喚起しません。しかしだからこそ、貫之の歌を際立たせるにはよかったのでしょう。引き立て役になっていますね。
      これからも歌の配置には気を配っていきましょう。

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