心地そこなひてわつらひける時に、風にあたらしとておろしこめてのみ侍りけるあひたに、をれるさくらのちりかたになれりけるを見てよめる 藤原よるかの朝臣
たれこめてはるのゆくへもしらぬまにまちしさくらもうつろひにけり (80)
垂れ込めて春の行方も知らぬ間に待ちし桜も移ろいにけり
「病気になって苦しんでいた時に、風に当たるまいと思って格子などを下ろして身を籠もらせてばかりございました間に、折って瓶に挿してある桜が散る頃になっていたのを見て詠んだ 藤原因香朝臣
簾や几帳の帷(かたびら)をたらして身を籠もらせていて春の変化の有様も知らない間に待っていた桜も散ってしまったことだなあ。」
桜の季節に病気になり、春とは切り離された日々を送り、桜を堪能することができなかった。その時の思いを詠んだ。
風に当たってはいけないと、部屋の奥の奥に籠もっている。それでも誰かが、桜を見せてあげようと、枝を折って病床まで持ってきてくれた。ところが、その桜も散り始める。それを通して、外の桜も今頃は散っているだろうと想像する。しかし、病はまだ癒えそうにない。今年は見ることができないと諦める。
不運にも、一年でもっともいい季節に病気になることもある。「よりによって今病気になるとは、運がない。」という無念な思いが伝わってくる。
コメント
病のため外界から隔絶され、桜の花時を逃してしまった。心ある人が用意してくれた桜の枝を見て外の桜を見る日を待ち侘びたでしょうに、時は無情にも流れ、部屋に置かれた桜が花の終わろうとしている事を知らせる。
花を気にする事ができるようになった程には病が快復した、と思って次の春を心待ちにしましょう、と慰めるしかありませんね。
『徒然草』百三十七段に次のようにあります。「すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。」
この記述は、こうした歌を踏まえてのものでしょう。春霞に隠れた桜も病床にいて見に行けなかった桜も心に思い描いてみることはできます。二つの歌はそれで繋がっているのでしょう。
桜の花ってすごいですね。
桜の花には、いろいろな人たちのそれぞれのドラマがあって、感慨深いなあと思いました。
人の数だけ桜を巡るドラマがありそうですね。
らんさんには、どんなドラマがありますか?