第十三段  書物という友

ひとり灯のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。
文は文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。此の国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。

文選:中国、梁の昭明太子が編集した詩文集。
白氏文集:中国、唐の詩人白楽天の詩集。
南華の篇:荘子の別称。
此の国の博士:文章博士。博士は官名。

「一人灯火の下に書物を広げて、見たことのない世界の人を友とすることこそが格別に心楽しませる行為である。
書物は、文選の情趣深い巻巻、白氏文集、老子の言葉、荘子。日本の文章博士たちが書いたものも、過去のものは、しみじみと趣深いことが多い。」

現実の友は飽き足らない、本を友にするには及ばないと言う。望ましい書物として、中国の古典を幾つか上げる。続いて、過去の日本漢文もよいと言う。
なるほど、気に入った本を友にするのは悪くない。好きなように付き合える。言い返されることもない。これなら、心安まることこの上ないだろう。言わば、本は、心の港である。そういう本があるのは望ましい。ただし、それだけでいいのかどうかは、別である。
さて、その例として挙げている書物は、清少納言が『枕草子』で言っていることのなぞりである。「文は、文章、文選、博士の申文」とある。老子、荘子は、当時の貴族の教養書であった。
以上、何ら新鮮味のあることは言っていない。

コメント

  1. すいわ より:

    中学生の頃、良く本を読みました。ジャンルを定めることなく何でもかんでも。知る喜びはもちろんですが、本に没入する事で現実から逃避してもいたように思います。そんな中学生時代のある日、体験を伴わない知識は私のものではない、ということに気付いた瞬間があり、愕然とした記憶があります。図録を見て「この絵、知っている」というのと同じですね。
    本は良く生きる為の水先案内にはなりますが、生きる主体はあくまでもその本人、ですものね。
    「いにしへのは、、」同世代にもきっと良い作品はあったのでしょうけれど、「あの人の作品がいい」と今活躍する人を名指しすると角が立つから敢えて取り上げないのでしょうか。

    • 山川 信一 より:

      すいわさんは、そんな中学生だったのですね。既に自分の頭で考えることを身に付けていたのですね。今の中学生はどうなのでしょうか?
      兼好法師は、新しいものが好きではないようです。「角が立つ」からという理由もあったのかもしれませんね。しかし、自分が評価されるのを避けているような気もします。評価が既に決まっているものだけを上げておけば、自分は評価されませんから。

      • らん より:

        私も読書が大好きだから、お友達がたくさんいます。身近な人になっちゃうんてすよねえ。

        兼好法師は新しいものが好きでないようですね。私もそう思いました。

        • 山川 信一 より:

          古典は、優れていますね。でも、自分だけの古典を見つけることも大事ですね。

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