かくのぼるひとびとのなかに京よりくだりしときに、みなびと子どもなかりき。いたれりしくににてぞ子うめるものどもありあへる。ひとみなふねのとまるところにこをいだきつゝおりのりす。これをみてむかしのこのははかなしきにたへずして、
「なかりしもありつゝかへるひとのこをありしもなくてくるがかなしさ」
といひてぞなきける。ちちもこれをききていかゞあらむ。かうやうのことどもうたもこのむとてあるにもあらざるべし。もろこしもこゝもおもふことにたへぬときのわざとか。こよひうどのといふところにとまる。
問1「なかりしもありつゝかへるひとのこをありしもなくてくるがかなしさ」を鑑賞しなさい。
問2「かうやうのことどもうたもこのむとてあるにもあらざるべし。」とは、どういうことを言っているのか、説明しなさい。
一行の中に京から下った時に、(使用人は)誰も子どもが無かった。行き着いた国で子どもを産んだものなどが丁度そこに居合わせた。その人たちは皆、船が泊まる所に子を抱いて降り乗りする。その様子を見て、子どもを亡くした母は悲しさに堪えられず、
「無かったのも有る状態で帰る人の子を(見ると)有ったのに無くして帰って来ることが何と悲しいことよ。」と言って泣いた。悲しみに堪えられなくなり、思いを歌にしてしまったのだ。
限定した言葉、それも反意語を組み合わせて作った歌である。(「あり」と「なし」、「かえる」と「くる」)「かなしさ」を使ったのは、中に「なし」が含まれているからだろう。「あり」「なし」に強いこだわりがあることがわかる。しかし、それは単なる技巧ではない。このようなぼかした表現を用いたのは、聞いた人が気分を害さないための精一杯の気配りからである。(問1)
と言って、それでも泣いてしまったのから、周りの人は、いたたまれない気になったのではないか。父親もこれを聞いてどのように思ったのだろうか。
泣くことなども(「かやうのこと」は泣くことを指す。)歌も、好んでそうしたわけではないに違いない。中国も日本も、思うことに堪えられなくなる時の仕業というわけなのか。歌は、涙と同様に思いが極まった時に自然に生まれるものである。「世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。」(『古今和歌集・仮名序』)の実例である。(問2)
今夜は宇土野というところに泊まる。
コメント
「もろこしもこゝも」、国の隔てに限ることなく時も超えて、ここまで心が届いて来る奇跡、歌を通して人が人としてどう在るべきかを考えさせられます。彼方から届いた贈り物、大切に受け継ぎたいと思いました。
貫之は、古典を書くつもりでこの『土佐日記』を書いたのでしょう。一字一句の無駄もありません。その思い通り、『土佐日記』は普遍性を持った作品(=古典)になりました。
すいわさんがおっしゃるとおり、作歌はもちろん、人生を考える上でも、その言葉は心に届きます。
有ったものを無くして帰って来たこと、何て悲しいことなのでしょう。
ものすごく悲しみが伝わってくる歌ですね。
ぐっときました。
「あり」と「なし」を使って、具体的な描写を避けています。しかし、それがかえって読み手の想像力を刺激しますね。
亡き子の母は、傍目も憚ることなく、歌を詠み泣いてしまいました。子を亡くした母の悲しみの程がわかります。