《墨染めの桜》

ほりかはのおほきおほいまうち君身まかりにける時に、深草の山にをさめてけるのちによみける かむつけのみねを

ふかくさののへのさくらしこころあらはことしはかりはすみそめにさけ (832)

深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け

「堀川の太政大臣藤原基経が亡くなった時に、深草の山に納めた後に読んだ 上野岑雄
深草の野の辺りの桜よ、心あるなら今年だけは黒い色に咲け。」

「(桜)し」は、副助詞で強意を表す。「(あら)ば」は、接続助詞で仮定を表す。「(今年)ばかり」は、副助詞で限定を表す。
太政大臣基経の墓のある深草の野に来てみれば、桜が満開であった。その華やかさに圧倒される。しかし、桜よ、もしおまえに心が有るなら、今年だけは喪服の色の黒い色に咲け。私の悲しみにあまりにそぐわない。
満開の桜にこと寄せて、自らの悲しみを表している。
この歌も、前の歌と同様に藤原基経の死を痛む歌である。二首並べたのは、どちらも捨て難いよい歌であったからであろう。表現に注目すると命令形繋がりでもある。この歌は、何と満開の桜を題材に死を悼む思いを詠んでいる。およそ有り得ない設定で死を悼む。桜のこんな桜の使い方もあるのだ。満開の桜を想像させることで、かえってそれにそぐわない作者の悲しみが伝わってくる。強意の副助詞「し」、「咲け」の命令形が強い感情を表すのに効果的である。編集者は、墨染めの桜という大胆な発想を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    あまりの悲しみに全てが文字通り色を失って見えるはず。が、目に飛び込んできたのはあまりにも素晴らしい満開の桜。何とも場にそぐわない。桜よ、お前に心があるのなら花びらにその心を映して墨染の色を纏って咲け、と。こちらも「公」の歌。「私」なら829番の歌のように♪想い出はモノクローム色を点けてくれ♪なのでしょうね。

    • 山川 信一 より:

      ピンク色の桜が真っ黒に咲くことが想像され、このコントラストの鮮やかさが悲しみのほどを表しています。この有り得ない設定こそが「公」の歌ならではのものなのでしょうね。「想い出はモノクローム色を点けてくれ」の自然さは感じられません。

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