題しらす よみ人しらす
あきといへはよそにそききしあたひとのわれをふるせるなにこそありけれ (824)
秋と言へばよそにぞ聞きし徒人の我を古せる名にこそありけれ
「題知らず 詠み人知らず
あきと言えば余所に聞いていた。移り気な人が私を古くする名であったのだが・・・。」
「あき」に「秋」と「飽き」を掛けている。「(言へ)ば」は、接続助詞で恒常的条件を表す。「(よそに)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(聞き)し」は、助動詞「き」の連体形で過去を表す。「ぞ」の結びになっている。「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし次の文に逆接で繋げる。「(あり)けれ」は、助動詞「けり」の已然形で詠嘆を表す。「こそ」の結びになっている。
これまでは、「秋」と言えば、自分に直接関係の無いこととして聞いていた。しかし、そうではなかった。移り気なあの人が私を古いもの扱いすることについた名であったのだが、これまではそんなことに全く気づかなかった。「秋」は、「飽き」だったのだなあ。
作者は、「あき」の本当の意味を知ったと嘆いている。
人は自分に無関係なものには関心を持たない。作者にとって「秋」がそれであった。しかし、「あき」は、「秋」だけでなく「飽き」を意味していた。無関係どころか、むしろ極めて関係の有る名だと気づいたと言う。
前の歌では、愛が恨み憎しみに変わることを嘆いていた。しかし、恨み憎しみは愛がある証拠でもある。愛の真の敵は、恨み憎しみではなく、飽きられることによる無関心である。人は飽きる動物だ。どんなに夢中になってもやがて飽きてくる。新鮮さが感じられなくなるからだ。だから、どんな流行でも必ず廃る。そこに飽きることの怖さがある。もちろん、恋も例外ではない。ただし、飽きることには、個人によって時間的なズレが生じる。二人同時に飽きれば悲劇は起こらないかもしれない。しかし、それは稀だろう。この歌は、編集者は、先に飽きられてしまった者の悲しみを詠んでいる。編集者は、それを「ぞ」と「こそ」の係り結びによって効果的に表現した点を評価したのだろう。
コメント
常春とばかりに幸せの中にあるのが当たり前だったのでしょう。いずれ訪れる秋のことなど自分には一切関わりのない事と思っていたのに。あなたの関心がひとたび私から逸れるとたちまち私の心は枯れて古びてしまった。枯れて離れるとはなるほどこれが秋(飽き)というものであったか、、。自分に自信のある人だったのでしょう。ショックが大きそうですね、、
「あきと言へばよそにぞ聞きし」は、自分の恋は永遠に春が続くという思い込みを表しています。恋の絶頂では誰もが有頂天になります。これはありがちな錯覚ですね。よくわかります。ところが、そうではないことが次第にわかってきます。それがわかった時の驚きとショックを詠んだのですね。