題しらす 凡河内みつね
かれはてむのちをはしらてなつくさのふかくもひとのおもほゆるかな (686)
かれ果てむ後をば知らで夏草の深くも人の思ほゆるかな
「題知らず 凡河内躬恒
離れてしまうかもしれない後を思わず、夏草のように深く人が思われることだなあ。」
「かれ」は、「枯れ」と「離れ」の掛詞。「枯れ」と「夏草」は縁語。「(果て)む」は、未確定の助動詞「む」の連体形。「(知ら)で」は、接続助詞で打消の意味を加えて後に繋げる。「夏草の」は「深く」の枕詞。「(思ほゆる)かな」は、終助詞で詠嘆を表す。
夏草が勢いよく生い茂っています。しかし、それもいつかは枯れてしまいます。今は夏草のように勢いのあるあなたも、いつか私からすっかり遠退いてしまうかも知れません。でも、私は、そんな後のことなど考えずに、夏草のように深くあなたのことが思われるのですよ。
夏草の勢いと移ろいやすさと深さという多面性をたとえに用いている。これらによって、相手へは反省を促す一方、自分の恋心の深さを伝えている。
この歌は、季節感を取り入れ、掛詞と縁語と枕詞を用いて、恋心を伝えている。この表現技巧が歌の内容とほどよく調和している。編集者はこうした点を評価したのだろう。
コメント
いつかは枯れ(離れ)衰えるという先のことなど思い描く事もせず、夏草は日毎その勢いを増して繁って行く。知りたくない未来を覆い隠すように。ただただ、今、この時、ひたすらに深くあなたを愛しく思わずにはいられないのです。
「深くも人“の”」、「人“を”」ではないのですね。
「もしかしたら私が通わなくなってしまう事もあるかもしれないというのに、先の事など考える事なく、あなたは夏草のように深く私を思ってくれるのだなぁ」なのかと思ってしまいました。
「夏草の深くも人の思ほゆるかな」の「人の」は「人が」ですから、すいわさんのように意味を取ることもできますね。ただそうなると、男はそんな女に同情していることになりますね。これはこれで面白そうな物語が作れそうですね。ただ、この「人の」の「の」は、「を」に通じる対象を表しているのではないでしょうか。『古今和歌集』の歌は、基本的に自分の悲劇を詠んでいますから。
確かに自分の悲劇性を基本詠むのですね。最初は「先の事を考えず夏草のように深く貴女を思ってしまう」と躬恒目線で読んだのですが「人の」で引っかかってしまいました。
「一人して物を思へば秋の夜の稲葉のそよと言ふ人の無き(584)」の時も私は「躬恒が女目線で詠んでいて『こういう女が好きなのだ』」というコメントをしていて、「人を」でなく「の」にする事で躬恒は女側の立場に置き換えて詠めるようにする傾向があるのかと思ってしまいました。
和歌は、三十一音の短い表現ですから、解釈鑑賞の幅はその分広がります。それで和歌に物語性が生まれます。ですから、すいわさんの鑑賞はそれでいいと思います。状況設定でいかようにも解釈鑑賞は変わります。基本はあっても「正解」はありません。
夏草が勢いを増すのはほんの短い期間。そのように、短い時間だけれど激しく燃え上がって儚く散ってしまう恋を連想させます。「かれ果てむ後をば知らで」だから、相手が離れていった後のことなどは考えないのでしょうね。今を精一杯大切にしている。使っている言葉は地味ですが、情熱的な歌ですね。
同感です。言葉と情熱のギャップがこの歌の魅力の一つですね。