題しらす よみ人しらす
いしまゆくみつのしらなみたちかへりかくこそはみめあかすもあるかな (682)
石間行く水の白浪立返りかくこそは見め飽かずもあるかな
「題知らず 詠み人知らず
繰り返しこのように逢おう。それでも、満足できないなあ。」
「石間行く水の白浪」は、「立ち返り」の序詞。「(かく)こそは」の「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし後の文に逆接で繋げる。「は」は、係助詞で取り立てを表す。「(見)め」は、意志の助動詞「む」の已然形。「(飽か)ずも」の「ず」は、打消の助動詞「ず」の連用形。「も」は、係助詞で強調を表す。「(ある)かな」は、終助詞で詠嘆を表す。
石の間を流れて行く水に立つ白波が石に当たって立ち返るように、このように何度も何度も繰り返し逢おうと思い、だから実際にこうしてあなたにお逢いしているのですが、それでもこの恋心が満たされることはありません。
「石間行く水の白浪立返り」は、小さな障害を克服して何度も逢いに行く努力をたとえている。自分の努力を視覚化して、さりげなくアピールしている。その上で、逢っても満足できないと嘆いてみせ、これからもこの恋が続くことを伝えている。
この歌は、このような自然現象も恋のたとえに使えることを示したところに独自性がある。また、第四句の事実と第五句の心情を「こそ」による係り結びで繋いだところに工夫が見られる。編集者は、これらを評価したのだろう。
コメント
「しらなみたちかへり」、この白浪、繰り返してというと磯のような所に波が打ち付けて砕けてまた来て砕けてなのか?と思いましたが、思いを遂げた後だから「砕ける」ことはありませんね。「ゆくみつ」だから川の流れですね?石と石の間を流れ通る水。狭まったその隙を白波立てて無理無理通って流れて行く。流れの勢いも強くなりますね。すんなり通れるところもあるのに、敢えて通りづらいと分かっていてもぶつかりながらでも通り抜けて行く。その流れを変える事なく。そんな思いをしても満ち足りず、貴女の所へ私は通い続けるのです、この流れが止まることなどないように。
もっともっと、というところが「恋」ですね。
「砕ける」ほどではないけれど「ぶつかりながらでも通り抜けて行く」のでしょうね。それほど、恋していると言います。その一方で、そうして通い続けても、満たされることはないと嘆いてみせます。自分の恋の有様をわかってもらおうとしているのですね。
「立ち返りかくこそは見め」 何度も逢っているのに満足できない…つまり、満足出来る状況というのは存在しないのでしょうね。逢いたくても逢えなかった時期を思い返してそれに比べれば今は最高!とはならないのが『古今和歌集』? 「足るを知る」とは無縁の世界。 まさに「飽かずもあるかな」ですね。
確かに『古今和歌集』は「『足るを知る』とは無縁の世界」ですね。でも、なぜ『古今和歌集』では、恋の歌は悲恋ばかりが歌われるのでしょう。満足や喜びは歌わないのでしょう。その理由も考えてみましょう。