題しらす よみ人しらす
よしのかはみつのこころははやくともたきのおとにはたてしとそおもふ (651)
吉野川みつの心は速くとも滝の音には立てじとぞ思ふ
「題知らず 詠み人知らず
吉野川の水のように私の心は激しくても、滝のように音は立てまいと思う。」
「みつ」は、「水」と「見つ」の掛詞。「(見)つ」は、意志的完了の助動詞「つ」の終止形。「(立て)じとぞ」の「じ」は、打消意志の助動詞「じ」の終止形。「と」は、格助詞で引用を表す。「ぞ」は係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「思ふ」は、四段活用の動詞「思ふ」の連体形。
あなたにお逢いしてしまった私の心は、あの吉野川の流れのように激しく揺れ動いています。しかし、どんなに心乱れても、吉野川の滝が音を立てるようには噂を立たせまいと思います。
吉野川の激しい流れをイメージさせることで、自分の恋に激しく乱れる心を伝えている。その一方で、吉野川との違いも伝えている。決してそれを露わにして噂は立たせないと言う。つまり、吉野川を肯定と否定に用いているのである。
前の歌とは、川と噂繋がりである。この歌からも噂に対する警戒心の強さがわかる。これは、この恋が必ずしも正当に認められたものではないことを暗示する。いわゆる不倫であろう。しかし、この時代には不倫は例外ではなく、むしろ恋の本流だったに違いない。なぜなら、禁じられた関係の方が刺激的であるからだ。そのため、常に後ろめたさと隣り合わせにあった。だから、それを打ち消す必要がある。この歌はその辺りの事情をよく表している。編集者は、それを評価したのだろう。
コメント
「みつ」の二文字で川の流れの勢いと逢瀬を経ての相手への思いの強さが伝わりますね。川の流れを意識した視覚で捉えた前半と同じ川を聴覚に切り替えて二人の関係を悟られないようにしようと伝える後半。ショートフィルムを見ているようにイメージしやすい。これを言葉で伝える技術、復権させたいですね。
上の句と下の句を視覚聴覚に分けて表現するという指摘、納得しました。この技術は使えますね。『古今和歌集』は、表現技術の宝庫です。ここから学ぶことはいくらでもありますね。
どんなに激しく心を揺さぶられても、ポーカーフェイスを装わなくてはいけない、と。でも確かにこの時代は不倫は日常茶飯事だったでしょうし、男性は妻が何人もいたわけですし、、不倫がばれたとしても現代ほどシリアスに社会的制裁を加えられたりはしなかったかな…とも思ってしまいます。わかりませんが。。寧ろ、内密にしていること自体を楽しんでいるようにも思えます。
不倫への社会的制裁が今とは違っていたのは間違いありません。たとえば、戦前には北原白秋も罪に問われた姦淫罪がありました。だから、平安時代にどれほどのものだったかはわかりません。ただ、わかるのは恋が現れるのを凄く気にしていたことです。まるで、現れたら恋が終わってしまうかのように。これは、「内密にしていること自体を楽しんでいる」ようでもありますが、お気楽なものではなさそうです。恋は一首の遊びでしょう。しかし、遊びは真剣にするから面白いのですから。