《雪の中の梅の香》

むめ花にゆきのふれるをよめる 小野たかむらの朝臣

はなのいろはゆきにましりてみえすともかをたににほへひとのしるへく (335)

花の色は雪に交じりて見えずとも香をだに匂へ人の知るべく

「梅の花に雪が降っているのを詠んだ 小野篁の朝臣
花の色は雪に交じって見えなくても、せめて香だけは匂わせよ。人が知るように。」

「見えずとも」の「ず」は、打消の助動詞「ず」の終止形。「とも」は、接続助詞で「たとえ・・・であっても」と言う気持ちを表す条件を示す。「(香を)だに」は、副助詞で我慢できる最小限をを示し、その実現を期待する気持ちを表す。「匂へ」は、四段動詞「匂ふ」の命令形。ここで切れる。以下は倒置になっている。「(知る)べく」は、可能の助動詞「べし」の連用形。
梅の花に雪が降っている。これでは、せっかく咲いた花の色が雪に交じってはっきり見えない。花の色と雪の色は似通っているので仕方がない。ならば、たとえ花は見えなくても、せめて香だけは匂わせて欲しい。ここにこう梅が咲いていると、人がわかるように。
梅が咲いた後に雪が降る。季節は行きつ戻りつして移ろうものだとわかってはいる。しかし、雪によってどれが梅の花かがわからないのは残念だ。そこで、香りによって、その存在を示して欲しいと言うのである。冬から春に入れ替わっていく季節の様子、それへの思い、梅の花の色と香の特色を一首に詠み込んでいる。前の歌では、色だけに注目していたが、この歌では、香りにも焦点が当てられている。

コメント

  1. まりりん より:

    視覚だけでなく嗅覚にも焦点を当てたことで、梅の開花という儚い春の気配が、戻ってきた冬に消されて無くなってしまわないように、という強い願いを感じます。

    前の歌もそうでしたが、ここでの梅は白梅ですね。この時代はまだ紅梅はなかったのでしょうか。紅梅だったら全く別の趣きの歌が詠まれたでしょうね。

        花の色は雪に混じりて際立ちぬ 行き過ぐ人ぞ暫し留めむ

    梅の花に雪が降りかかって、その紅い色がより際立って見えることだ。近くを通りかかる人が(その美しい光景に)素通りすることができずに暫く立ち止まって梅を見ている。

    とか。

    • 山川 信一 より:

      『古今和歌集』の梅は白梅です。なぜ紅梅ではないのかに注目したのは、とてもいい着眼点です。当時は、まだ紅梅が無かったわけではなさそうです。当時の漢詩には出て来ます。少し時代が下れば、『枕草子』や『源氏物語』には出て来ます。では、なぜ『古今和歌集』には出てこないのか?その理由は、おそらく、『古今和歌集』の時代には、紅梅に対する美意識が整っていなかったからでしょう。つまり、紅梅は、美しいことは美しいけれど、どこかケバケバしい新参者だったのでしょう。だから、和歌の優雅さとは相容れないと思われたのでしょう。新しいものに対するこういう意識は、一般的です。たとえば、万年筆は今でこそ優雅な筆記用具とされていますが、それが出た頃は、異端者扱いされました。東京タワーにしても今はスカイツリーより味のある建物になっています。そんな訳で敬遠されたのでしょう。また、白梅よりも遅れて咲くこともあります。
       紅梅の梅より遅れ咲けれども賢しら顔にしやしやり出でたる  なんであれ、新参者はえてして偏見を持たれやすいものです。

  2. すいわ より:

    前の歌のコメントにまさに「ちらほらと梅がほころび始め、香りに誘われて外の景色を眺めたのでしょうか」と書いたのですが、梅はその香りがやはり印象的。
    この歌では生まれたての春が名残の雪に閉じ込められて、その存在を覆い隠されてしまう。ならば視覚の強いインパクトでなく記憶にダイレクトに訴えてくる香りに春の兆しを求める。冬越え一番に咲く花の使命を果たしておくれ、と。手が届きそうで届かないもどかしさ。春待ちの心が伝わります。

    • 山川 信一 より:

      前の歌では、色が主役でしたから、敢えて触れなかった香りに触れなかったのでしょう。読み手が香りを意識して主題がぶれないように。それに対して、この歌では、梅に香りという梅の本来の特徴を生かし、雪に対する色の弱点をカバーして欲しいと言っているのですね。

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