題しらす つらゆき
ひとしれぬおもひのみこそわひしけれわかなけきをはわれのみそしる (606)
人知れぬ思ひのみこそ侘しけれ我が歎きをば我のみぞ知る
「題知らず 貫之
人知れぬ思いは辛いだけであるが、私の嘆きを私だけが知っている。」
「(知れ)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「のみこそ」の「のみ」は、副助詞で限定を表す。「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし以下に逆接で繋げる。「侘しけれ」は、形容詞「侘し」の已然形。「をば」の「ば」は、係助詞「は」が濁ったもので取り立てを表す。「のみぞ」の「のみ」は、副助詞で限定を表す。「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「知る」は、四段活用の動詞「知る」の連体形。
人知れずあなたのことを思って、辛い思いばかりしています。それなのに、私の嘆きを知っているのは私だけで、あなたが知ることはありません。
作者は、自分だけがいかに辛い思いをしているかを訴えるために、次のような表現上の工夫をしている。「のみ」を二度使う。「わが」と「われ」で自分を強調する。「こそ」「ぞ」と強調の係助詞を二度使う。
事物・行動に託して心を伝える前の歌に対して、この歌はずばり心理そのものを題材にしている。普通は、心理そのものを題材にすべきではないとされる。客観的な物に寄らないと、主観的な心理は伝わりにくいからである。しかし、この歌は敢えてそのタブーに挑戦している。しかも、表現上は、伝統的な修辞法に頼っていない。それに替わり、繰り返しの技巧が用いられている。ここには、新しい表現法への挑戦がある。編集者が伝統に則った前の歌とは正反対の歌を並べたのは、こうした内容面・表現面に於ける挑戦を評価したのだろう。『古今和歌集』に於ける表現への飽くなき探求の姿勢が伺われる。
コメント
心理を繰り返し、自分を強調し、思いを伝える。そのような歌は多くの場合、くどく聞こえるでしょうか。この貫之の歌は執こく感じませんね。そこが技術の違いでしょうかね。
とかく人は「・・・とはこうではならない」という決めつけをします。たとえば、「俳句は描写でなけれなばらない。」とか。なるほど、初学のうちは技量を磨くのに一定の効果があるかも知れません。しかし、それにのみ囚われていると、もっと大事なことを見失うこともあります。芸術は永遠の改革です。貫之の歌はその姿勢を示しています。
歌をどう捉えるか。自分の表現を主張する、「芸術」であれば数多くの対象に向けての表現になるけれど、一対一の思いを伝えるアイテムだとしたら、正にこの歌は2人だけにわかる特別な表現と言うことになりますよね。言葉の「二度使い」も2人の間を暗示しているようにも思えます。なのにこの歌、「どの二人」でも通用するところが驚嘆。実験的、挑戦的試み、こうした精錬を経て伝統は作られていくのでしょう。天晴れ。
芸術は、常識を超えなければなりません。しかし、だからと言って、独りよがりになってもいけません。恋の歌であれば、現実に相手の心を捉えねばなりません。この条件をクリアして初めて、優れた歌と言えます。そそて、それが新たな伝統になっていくのです。学ぶべきは、この歌の「実験的、挑戦的」でありつつも、実用性にこだわる姿勢です。
「実験的、挑戦的」でありつつも、実用性にこだわる姿勢、、学びの場で今欠けているものがまさかここに示されていたなんて。全ての学びにこの姿勢を取り戻してほしいです。失敗を恐れることなく。
どのルートから登るにしても、何事も目指す頂は同じなのでしょう。歌もどんなに芸術的であることを目指しても、一人の人の心を動かせ目的を忘れてはなりません。