題しらす 小野小町
うたたねにこひしきひとをみてしよりゆめてふものはたのみそめてき (553)
転た寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼み初めてき
「転た寝に恋しい人を見てしまってから夢というものは頼りにし始めた。」
「(見)てし」の「て」は、意志的完了の助動詞「つ」の連用形。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「初めてき」の「て」は、意志的完了の助動詞「つ」の連用形。「き」は、過去の助動詞「き」の終止形。
転た寝に恋しい人との逢瀬を夢に見てしまいました。それ以来、私は、夢というものをあてにし始めてしまいました。それと言うのも、夢の逢瀬が現実に劣らず素晴らしかったからです。私はその間とても幸せでした。そもそも夢と現実どちらがあてにできるでしょうか。現実は意外にあてになりません。なぜなら、私の意志ではどうにもなりませんもの。それに対して、夢の方が自分の意志で何とかなりそうです。これからは、夢の方をあてにしたいと思っています。
この歌では、意志的完了の助動詞「つ」が二度も使われている。これは、作者の強い意志を表している。恋しい人を夢に見たのも自分の意志であり、夢をあてにし始めたのも自分の意志であると、恋に主体的であろうとする姿勢を表している。小町は自分によほど自信のある強い女であったらしい。その美貌がその自信を支えていたのだろうか。
しかし、貫之は仮名序で小町の歌について「あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よきをうなの、なやめる所あるににたり。つよからぬは、をうなのうたなればなるべし。」と言っている。小町の表現を弱さを隠す女の強がりと見たのだろうか。なるほど、歌の調べは、嫋やかでやわらかくしっとりしている。しかし、これは強さを助動詞「つ」に託して、さりげなく隠しているようにも見える。
コメント
前の歌と「夢の中の逢瀬」繋がりですね。自分の意志で恋しい人に逢っている、と主張する一方で、しばしば男性が夢に現れて「私って、こんなにモテるのよ!」と暗に自慢しているようにも思えます。才色兼備で、同じ女性としては羨ましい限りです。
どう感じるかは自由です。ただ、小町がこの時代新しいタイプの女性だったことは確かです。と言うより、今でもでしょうか?
転寝、浅い眠りですね。尚のこと現実と夢の境界が曖昧になりそう。前の歌と比べると何か心許ない。夢うつつの状態を頼みとする。よろめくような頼りなさ。小野小町は賢い人だったと思うのですが、だとしたらそらごとの夢が当てにならないことくらい分かっているはず。これが計算なら強かなものだと思うけれど、小野小町は「小野小町」という唯一無二のブランドを背負って貫之が言うように虚勢を張っていたのではないかと思えます。緊張のふっと緩む一瞬、心地良い夢に漂う時が彼女には必要だったのかも。案外、こちらの彼女の方が素なのかもしれません。
この歌が恋人に対してものであれば、「あなたは滅多に逢いに来てくれないので、あなたよりそらごとの夢の方をあてにするようになりました。」ということになります。恋人の不実に対する当てつけです。小町は、賢く強い女性だった気がします。