題しらす 読人しらす
おきへにもよらぬたまものなみのうへにみたれてのみやこひわたりなむ (532)
沖辺にも寄らぬ玉藻の浪の上に乱れてのみや恋ひ渡りなむ
「沖にも岸の近くにも寄らない玉藻のように浪の上に乱れてばかり恋い続けてしまうのだろうか。」
「沖辺にも寄らぬ玉藻の浪の上に」は、「乱れて」を導く序詞。「(寄ら)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「(のみ)や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(恋ひ渡り)なむ」の「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形。「む」は、推量の助動詞「む」の連体形。
海には、沖にも岸の近くにも寄らず浪に漂う美しい藻があります。今の私の心は、そのどこにも寄る辺のない藻のようです。このまま乱れに乱れてばかりいて、あなたに寄り添うこともなく、これからもずっとあなたを恋いし続けることになってしまうのでしょうか。
作者は、自らの恋心の乱れを波に浮かぶ藻によって可視化した。漂い乱れるだけで、どこにも行き着くことがない、せめてあなたに寄らせてほしいと訴える。可視化したことによって、説得力を高めている。自らの恋心を「玉藻」にたとえたところに密やかな自負が隠されている。
前の歌とは水繋がりである。ただ、題材を河から海に転じている。自然物に託して、思いを述べる同じ型の歌である。植物を「海松布」から「玉藻」に変えているだけである。編集者は、題材が異なる恋の歌のバリエーションとして載せている。このことで、他の題材も有り得ることを示唆している。この歌も「詠み人知らず」であり、男女どちらの歌としても読める。
コメント
浮き名を流すあの人でしょうか、側から見たら彼方此方節操なくのお渡り、、いえいえいつだって私は真剣に恋しているのです。でもしっかりと私の心を離さずにいてくれないと玉藻のように流されてしまう。私を離さないで、、モテる人の歌ですね。
私は、これは自分を受け入れてくれない相手への恨み言とおに読みました。なるほど、恨み言は恨み言でも、実際にモテないとは限りませんね。モテる意事を隠しして、根無し草のように言っているのかも知れませんね。
まず詠み手は女性だと思って読みました。その場合、先生の解釈と同じ読みになったのですが、解説の最後、「男女どちらの歌としても読める」。ならば男の立場だったらどう読めるのか想像しました。ずいぶん景色が違って見えて面白かったです。
『古今和歌集』の「詠み人知らず」は、読み手の想像力を限定しませんね。言葉の意味が状況次第で変わることを教えてくれます。状況有っての言葉なのです。だから、逆に「題知らず 詠み人知らず」のいい歌はかえって難しいかも知れません。普遍性を持たなくてはなりませんから。
私の恋心は、玉藻のように浪に任せて漂うだけで何処にも辿り着くことはない。そこには私の意思などは存在しない。あなたに近づくことすら出来ない…
やはりこれは、女性が詠んだ気がします。自分の意思ではどうにもならない事の「虚しさ」を感じます。
自分の恋心は、「玉藻」。制御不能、どこに行き着くこともできず漂う。では、恋心が漂うのはどこか?心のありどころ?つまり、胸の内?ならば、「浪」は?それを掻きたてた結果、生まれたのもの。立てたのは風。つまり、あなたの態度。次々に連想が及びます。
この発想は、女性らしいと言えば女性らしいかも知れませんね。