《妖しい恋の炎》

題しらす 読人しらす

かかりひにあらぬわかみのなそもかくなみたのかはにうきてもゆらむ (529)

篝火にあらぬ我が身のなぞもかく涙の河に浮きて燃ゆらむ

「篝火ではない我が身がどうしてこのように涙の河に浮いて燃えているのだろう。」

「(あら)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「(燃ゆ)らむ」は、現在推量の助動詞「らむ」の連体形で現在の出来事の原因理由をを推量する。
あなたを恋しく思う涙で河ができてしまいました。私はその河に映る篝火なのです。その篝火は、河に浮きながら燃えています。それを想像してください。それこそが私なのです。夜になると、涙を流しながら、あなたへの熱い思いが篝火のように燃え上がっています。私はなぜこんなことになってしまったのでしょうね。
篝火は漁師が河で魚を獲るために焚くものである。恋人を我がものにしようとする作者の思いを暗示している。この歌では、「身」と「心」を一つのものとして扱っている。実際の燃えているのは「心」であっても、実際に見えるのは「身」であるからである。つまり、この「身」の様子は「心」の表れである。
自分が別の物になってしまうという発想の歌が続く。編集者が影から篝火へと転じたのは、暗から明を意識したためだろう。しかも、夜の暗闇の中で燃える篝火は、恋の妖しい思いにふさわしい。編集者は、このたとえの効果を評価したのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    「炎のように燃える思い」という言い方はしばしば聞きますね。その点では前の歌の影法師よりはイメージしやすいです。ただ、暗闇の中で涙の河に燃え盛っている篝火を想像すると、恋する者の「怨念」のようで少々不気味です。

    • 山川 信一 より:

      闇夜に舟の篝火が川に映って揺れている。それが作者の身だと言います。確かに「怨念」のように無気味ですね。

  2. すいわ より:

    思いが募って流す涙は川となり、その川面に映る漁火の炎こそ今の私の思いそのものなのだ、と。暗闇の中、赤々と燃える炎が目に浮かぶようですが、川面に映るその炎に熱はなく、そもそも流れる川自体、詠み手のイメージでしかない。全てが虚ろ。炎の揺らめきは本当に自分の心が揺れているのか、川(恋心)に流されて揺れているように感じているだけなのか、、。見えてくる映像はインパクトがあるのに現実味を感じさせない。見ている像が川面のそれなのですね。漁の成果は望めなそうです。

    • 山川 信一 より:

      作者は、この歌では、「思い」を出していません。出しているのは、「思い」抱く身の方です。あくまで、ビジュアルに語ろうとしています。そのことによって、「思い」は想像してもらえばいいと。では、読み手は、作者の「思い」に迫れるのか。どうもすいわさんには、その身も「思い」も「現実味を感じさせ」なかったみたいですね。

  3. すいわ より:

    上村松園の「焔」がまず思い浮かびました。情念が燃えている。でもこの人自身がこれを表に出すかというと出せないまま本心が川面に映って本来の自分の姿を見つめている。その心も定まりなく流されるままに漂っている。どちらが本当の自分なのか分からなくなる。私はあの篝火ではないのにどちらが本当の私なのだろう?曖昧な境界を行き来しているかのような、幻の空間に身を置いているような感覚に詠み手は置かれているように思えました。

    • 山川 信一 より:

      この歌から上村松園の「焔」を思い浮かべるのはさすがの感性です。作者は、恋をして自分が何者かがわからなくなっている。この歌はそんな思いを抱く身の「幻の空間」を描いているのですね。

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