第二百八段  形式主義への戒め

 経文などの紐を結ふに、上下よりたすきにちがへて、二筋の中より、わなの頭を横さまに引き出す事は、常の事なり。さやうにしたるをば、華厳院弘舜僧正、解きてなほさせけり。「これはこの比やうの事なり。いとにくし。うるはしくは、ただくるくると巻きて、上より下へ、わなの先をさしはさむべし」と申されけり。古き人にて、かやうの事知れる人になん侍りける。

わな:紐などを結ぶ時に輪状にしたもの。
華厳院:仁和寺の別院。
弘舜僧正:兼好と同時代の人。

「経文など巻物の紐を結ぶのに、上下から斜めに交差させ、二筋の中から、輪の頭を横向きにに引き出すことは、普通のことである。そのようにしたのを華厳院弘舜僧正は、解いて直させた。『これはこの頃のやり方である。まことに気にくわない。正しいのは、ただくるくると巻いて、上から下へ、輪の先を差し挟むのがよい。』と申されました。昔ながらの人で、このようなことを知っている人でございました。」

弘舜僧正が書物の紐の結び方について、やり方が煩わしくなっているのを戒め、簡素で素直な昔風のやり方に戻そうとしている。兼好は、それに共感している。
なるほど、経文など書物は読むことが重要で、結び方にそれほど拘る必要はない。開かないようにすれば事足りる。むしろ、結び方などの瑣末なことに拘るべきではない。
兼好が有職故実に拘るのは、次のように考えているからだろう。世の中は必ずしも正しい方向に進むとは限らない。形式が無闇に複雑になり、本質が忘れられたり、権威を持たせるための手段になったりする。だから、時には、昔に立ち帰って、何が重要かを確かめて見るべきだ。一理ある考えである。身の回りを振り返ってみたい。
それにしても、巻物の結び方の説明には、言葉という表現手段の限界を感じる。それを実際に見たことのない人に言葉で伝えることは不可能である。取り敢えずわかるのは、昔の方が簡素だったことだけである。もっとも、この場合の趣旨には、それで十分であるけれど。

コメント

  1. すいわ より:

    昔のやり方の方が良いというのならば、その利点を書き記して欲しいところです。同じものを大量に処理する場合なら、同じ手順にした方が作業効率は良いと思いますが、巻物をしっかり閉じると言うことに関してはどちらであっても問題はなさそうです。どこぞの偉い人がたまたまやったやり方を右へ倣えで皆がやり方を変えてそれが今時のスタンダードに、という事があってもおかしくありません。権威付けですね。簡単という意味では昔の巻き方に軍配。襷掛けは手数が増えます。
    それにしても、動作は言葉で伝えづらいですね。皆がおおよそ知っている前提でないと本当に伝わりにくい。
    今時の紐かけ
    巻物を縦に置いた時に紐を8の字を描くように(正面から見ると✖️になるように)巻いて残った紐を二つに折って輪になったところを巻いた紐の✖️の下を横に通して挟む(裏側の紐は並行。最後に通す紐を横からとしているので、おそらく正面側が✖️)
    昔の紐かけ
    巻物を縦に置いた時に紐を横に並行に巻いて(グルグルと)残った紐をニつに折って輪になった所を巻いた紐に上から挟む
    二度読みしてやってみてしまいました。

    • 山川 信一 より:

      巻物の紐の巻き方が複雑になると、その分手間が増えて、書物を読もうという気をそぎかねません。こういうのを本末転倒と言うのでしょう。誰が何の意図で始めたのでしょうね。
      紐かけを実際になさってみたのですね。その上での説明文ですね。大分わかりやすくなりました。しかし、これでも知らない人には、伝わりません。言葉は、本質的に同じ経験をした者同士にしか伝わらない、不自由な手段なのです。それを忘れずにいたものです。

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