《虚しき空》

題しらす 読人しらす

わかこひはむなしきそらにみちぬらしおもひやれともゆくかたもなし (488)

我が恋は虚しき空に満ちぬらし思ひやれども行く方も無し

「私の恋は大空に満ちてしまったらしい。思いやっても行く先もない。」

「(満ち)ぬらし」の「ぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形。「らし」は、推定の助動詞「らし」の終止形。以下が推定の根拠になっている。
私の恋は、この何も無い空っぽの大空いっぱいに満ちてしまったらしい。私の胸の思いを放ちやるけれど、行くべき方向もなく虚しく漂っているからだ。
484番の歌にもあるように、物思いには空が眺められる。すると、作者には、自分の恋心が大空に満ちていると思える。思いを放っても、大空を漂うだけで、方向性が見出せないからだ。すなわち、この恋をこの先どう進めたらいいのか、その方法が思いつかないのである。ならば、この歌は独白だろう。恋の相手に歌さえ贈れないのだ。しかし、歌を贈り思いを伝えられなくても、歌にしないではいられない。歌にすることで、そのつらさに耐えられるからだ。歌には、そんな効果もある。
このたとえは、実感に基づいている。だから、この歌を理解するためには、それなりの恋の経験が必要である。全く恋の経験が無い者には理解しがたい。しかし、たとえ読み手に恋の経験が乏しくても、わからせるのが表現の力である。「むなしきそら」は、漢語の「虚空」を訳した大和言葉である。しかし、そこには「大空」の意味だけでなく、作者の虚しい思いが暗示されている。そのため、読み手に恋とはこういうものだと思えてくる。恋をしたら、この思い無しに空が眺められなくなるに違いない。

コメント

  1. まりりん より:

    まだ片想いなのでしょうか。思いを伝えられずに、悶々としながら空を見上げて溜息をつく様子が目に浮かびます。この恋の行方がわからない、自分の気持ちをどうおさめれば良いのかわからない。落ちつかない気持ちが、空気に混じって空をモヤモヤと漂っているようです。

    • 山川 信一 より:

      大空を満たし、行くべき方向を見出せない心。この捉え方って、斬新だと思いません?少なくとも、私は自分の心をこんな風に捉えたことがありません。まりりんさんは、こんな風に空を眺めたことがありますか?『古今和歌集』が古いだなんで到底言えませんね。

      • まりりん より:

        私も、このように空を眺めたことはありません。心が空を翔んで星に届くようにとか、せいぜいその程度です。1000年昔の教科書に教えられますね。

        • 山川 信一 より:

          『古今和歌集』は、普遍性を目指した歌集です。ですが、それは表現の可能性への挑戦の上に成り立っているようです。この姿勢は見習いたいですね。

  2. すいわ より:

    あなたへのやり場のない思い、ため息と共に歌に託して空に放つ。あっという間にそれは空を埋め尽くす。晴れぬ空は私の心、この虚しさを如何にしようか、、ため息の雲がやがて雨を降らせることになるのでしょうか。恋するときめき、届かぬ思い。心が溢れないよう見上げた空は何色に見えるでしょう。

    • 山川 信一 より:

      作者の心は、大空を一面に覆う雲のイメージなのでしょうか。少しも動くことなく、重くのしかかってくる。それとも、透明のままで空と同化して、つかみ所さえないのでしょうか?「虚しき空」とあるから後者のような気もします。あらゆる恋の手段を失った虚しさが感じられるので。

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