《湖の春》

からさき  伊勢

なみのはなおきからさきてちりくめりみつのはるとはかせやなるらむ (459)

浪の花沖から咲きて散り来めり水の春とは風やなるらむ

「浪の花が沖から咲いて岸へと散って来るようだ。水の春とは風がなっているのだろうか。」

「来めり」の「来(く)」は、カ変動詞「来(く)」の終止形。「めり」は、視覚推定の助動詞「めり」の終止形。ここで切れる。「(風)や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして文末を連体形にする。「(なる)らむ」は、原因理由の助動詞「らむ」の連体形。
浪は湖に咲く花だ。沖から咲いて岸の方に散って近付いて来るようだ。浪の花は、風が咲かせたものなのだな。ならば、水の春とは、風が姿を変えてそうなっているのだろうか。
琵琶湖は大きな湖なので、海と同様に浪が立ち、岸に打ち寄せる。作者には、それが花が咲いたように見えた。作者は、これを水に春が来た、風が水を春にしたと捉えた。つまり、浪・花・水・春・風の関係を知的に分析的に表したのである。これは、湖の春の訪れへの喜びを表すためである。
「沖から」の「から」はやはり散文的である。普通なら「より」を使うだろう。物名だから、やむを得なかったのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    沖の方に見える白波、この白を湖面に咲いた花と見た訳ですね。そしてそれは自分のいる岸へと近づいて来る。まるで春が一歩一歩近づいて来るかのように。その花を咲かせたのは?風が水を波立たせたのだ。ならばこの水面に春を呼び寄せたのは風なのではないか?湖面を渡る風も心なしか暖かに感じられたことでしょう。

    • 山川 信一 より:

      感性と理性は、相容れない対立する精神作用というわけでは無さそうです。歌から理性を排除し、説明的だとする向きもありますが、こういう歌を読むと、その考えを改めたくなります。大事なのは、方法そのものではなく、作者の感動を伝えることなのですから。手段に拘りすぎるのは間違っていますね。

  2. まりりん より:

    水の春。水に春を見つけたのですね。色々な物の中に春の訪れを見つける、その発想が素敵です。確か、秋の項でも何とかの秋、ありましたね。

    卵割りカラザ気になりフォーク2本使いて除く吾子の横顔

    吾子は子供時代の私です。懐かしいです。今はお箸で出来るので。

    • 山川 信一 より:

      同感です。「春は何にでも訪れるはず。ならば、水の春は?」という発想は、知的であり詩的でもありますね。
      見事な物名です。情景が目に浮かびます。これも、「吾子」の成長、人生の春の一面ですね。
      *よきことは母から先に行はむカラザを取るはもつたいないに  カラザも栄養があるとのこと。

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