《言外の意》

さうひ つらゆき

われはけさうひにそみつるはなのいろをあたなるものといふへかりけり (436)

我は今朝初にぞ見つる花の色を徒なる物と言ふべかりけり

「私は今朝初めて見た。その花の色を移ろいやすいものと言うべきであったなあ。」

「初にぞ」の「初」は名詞、「に」格助詞で場として条件を示す。「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(見)つる」は、意志的完了の助動詞の連体形。ここで切れる。「徒なる」は、形容動詞の連体形。「(言ふ)べかりけり」の「べかり」は、適当当然の助動詞「べし」の連用形。「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。
私は今朝初めてこの花を見た。花の色に思わず心が奪われ、その美しさを讃える言葉を口にしてしまった。しかし、どんなに美しく咲く花もやがては色褪せてしまう。むしろ、そのことを言うべきであったなあ。
この歌は、題と内容が一致している。隠された花についての歌になっている。上の句で事実、下の句で心を表している。貴族には珍しい花だったのだろう、作者がこの花を見たのはこの時が初めてだった。「我は」「初に」によってそれを伝えている。上の句はこの事実を表している。下の句は、その時の思いではなく、その後の思いである。ただ、その後とは言っても、「今朝」とあるから、その日の思いである。夜にでも、朝のことを思い出したのだろう。そして、その思いとは、一種の後悔である。つまり、どんなに美しい色でもいつか移ろう。無闇に心奪われるべきではない。後で、空しさを感じることになるからといった理屈である。ただし、大した理屈ではない。では、作者はなぜこんな理屈を述べたのか。実は、この花が後になってこんな理屈を言わせたという事実を言いたいからだ。言い換えれば、その時には、自分に理屈を言わせなかったこの花の美しさを表している。つまり、思わずその色の美しさにうかつにも心奪われ、賞讃の言葉を口にしてしまった。そうした、その花の理屈を言わせない美しさを表しているのである。
なお、これはこの花について言っているけれど、この花にたとえられる美しい女性にも当てはまる広がりのある内容でもある。
この花は野生している。別の名前もある。今はその方が一般的である。何だろう。

コメント

  1. すいわ より:

    理性が働くよりも先に心動かされてしまったのですね。それ程に美しい「薔薇」
    当時はきっと原種に近い一重咲きのものだったのではないでしょうか。鮮やかな色に目を奪われたのでしょう。バラ、これは知ってました。というよりこの字、子供の私、そうびと読む方を先に知りました。昔の本ってルビが振られていましたよね?親の文学全集を抜いて来て読んで誰の何という詩か覚えていないのですが「…庭の薔薇の…」と書かれていて「難しい漢字だけれど、そうびって何?」と辞書を引いたのです。そして「バラ」と知ってまた、何故そうびと呼ばれていたのが似ても似つかないバラと呼ばれるようになったのか不思議でモヤモヤしたのを思い出しました。それきり調べていないので謎のままです。

    • 山川 信一 より:

      薔薇、正解です。「そうひ(そうび)」は、薔薇の音読みです。これは日本にも自生していたはずです。それを「いばら」と言います。茨城県の「いばら」です。「いばら」から「ばら」ができました。実は、日本語には語頭に濁音が来ないという原則があります。だから、「いばら」なのです。しかし、この原則が当て嵌まるのは、和語だけです。漢語やカタカナ語には当て嵌まりません。ですから、「ばら」と言われるようになったのは、外国から来た品種だったのかも知れません。これは日本の「いばら」とは違うという強い印象を表すために「い」が落ちたのでしょう。証明はできませんが、そんな気がします。貫之が初めて見たのもそんな薔薇だったのでしょう。

  2. まりりん より:

    美しい女性の例え?、、薔薇、百合、らん。牡丹、芍薬、、
    何でしょう? この中にあるでしょうか?

    作者が初めて見たこの花、理屈を言う余裕もないほど、よっぽど美しかったのですね。

    • 山川 信一 より:

      薔薇です。音読みがソウビ(さうび)なのです。今でも「冬薔薇(ふゆそうび)」などと言いますよね。
      「あだなるものと」言うべきだった、私としたことが失敗したと後悔してみせることで、いかに美しいかを表しています。さすが貫之です。手が込んでいます。

  3. まりりん より:

    「薔薇」でしたか。やはり、美しい女性のイメージ ナンバーワンですね。「そうび」は全く知りませんでした。なるほど、音読みでそのまま「そうび」と読むのですね。すいわさん、ご存じだったなんて凄いです。やはり、ご幼少期からの読書の量と質が違いますね!

    それにしても、日本語には語頭に濁音が来ないという原則があること、初めて知りました。
    そう考えると、ガラスは外来語だから納得できるとして、「大根」は「すずしろ」、「ばくち」は「とばく」が正解?「ばくだん」は漢語?「行儀」「だんご」「草履」「ざらめ」、、も外来語? 純粋な和語は、思っているより少ない、というか外来語がとても多いのかも知れないですね。

    • 山川 信一 より:

      和語には語頭に濁音が来ないというのは原則です。たとえば、女の子の名前はあまり濁音で始まりません。でもね、規則と言うのは破る楽しみもあるんですよ。まりりんさんだって、修学旅行の折に消灯時間を超えておしゃべりをしていませんでしたか?
      和語の語頭に濁音が来ないという原則を作っておけば、それを破ると違和感が生じます。これを利用すると様々な効果が生まれます。異常性だったり、強調だったり、悪口だったり。「バカ・ブス・デブ・ドジ」のような悪口は濁音で始まることが多いのです。「カラカラ・ガラガラ」「サラサラ・ザラザラ」これは強調ですね。例は、いくらでもあります。でも、このルールは漢語やカタカナ語には適用されません。私たちは、いつでも和語・漢語・カタカナ語を区別して使っています。
      ちなみに、「爆弾」「行儀」「草履」は漢語。「団子」の「団」は漢語。「さらめ」は和語ですが、サラサラした粉砂糖に対して、ザラザラした感じを出しているのです。
      日本語には、漢語やカタカナ語が多いかと言えばそうとも言えません。核になっているのはやはり和語です。

  4. すいわ より:

    まさか何十年の時を経て、ここで謎が解けるとは思いませんでした!嬉しいです、有難うございます!
    和語のお話も楽しいです。これだから『国語教室』通い、やめられません。
    「いばら姫」のイバラ、これも同様に「い」って何?と思い、「いら(棘)」の「い」だ、と子供の私は勝手に思うことにしておりました。

    • 山川 信一 より:

      「いばら」の「い」は接頭辞で、「いだく」の「い」と同じです。「いだく(抱く)」も「だく」と、語頭を濁音にすることで意味が強まります。(そもそも、濁る音、澄んだ音という捉え方が日本語特有なのです。音を差別しています。)「い」の語源については、何とも言えません。語源は証明が難しいのです。ただ、「いら」は「いばら」の「ば」の抜けたものかも知れませんね。

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