《刹那の喜び》

くたに  僧正へんせう

ちりぬれはのちはあくたになるはなをおもひしらすもまとふてふかな (435)

散りぬれば後は芥になる花を思ひ知らずも惑ふ蝶かな

「散ってしまうと後は塵になる花を思い知らずも惑う蝶だなあ。」

「(散り)ぬれば」の「ぬれ」は、完了の助動詞「ぬ」の已然形。「ば」は、接続助詞で確定条件を表す。「(知ら)ずも」の「ず」は打消の助動詞「ず」の連用形。「も」は、係助詞で表現を和らげている。「(蝶)かな」は、詠嘆の終止形。
蝶が花の辺りを飛び回っている。しかし、その花もすぐに散り、塵となってしまう。蝶はそんなことを思ってもいないように蝶は花の美しさに夢中になっていることだなあ。しかし、人間の営みもあの蝶とどれほどの違いがあるのか。同じではないか。蝶を笑えない。人間も束の間の美しさに目を奪われて生きているのだ。
眼前の情景を詠むことで、何かを暗示するタイプの歌である。蝶の姿に人間を重ね、美しい物に夢中になることの愚かさを思わせる。無常観による戒めなのか、単なる負け惜しみなのか、この歌の背景は色々と想像される。
詠み込まれている花の名は、現代では使われていない。この花は、竜胆とも牡丹とも言われている。蝶が夢中なるほど美しい花なのである。

コメント

  1. すいわ より:

    「濡れ葉」ではない、「りんどう」、「ぼたん」?全く別物ですね。竜胆は秋、牡丹は春、、お手上げです、わかりません。
    「美しいものに夢中になる愚かさ」とも読めますね。大人が無邪気に戯れる若者の様子を見て先の事など考えずにいた頃を回想しているようにも思えました。

    • 山川 信一 より:

      これは、無理ですね。「くたに」でした。「くたに」が今の何であるかがわかっていません。「くたに」は、苦胆とも書きます。私は華やかさから牡丹のような気がします。
      大人が若者を見ての感想にも思えますね。

  2. まりりん より:

    先生、降参です! わかりません・・

    この美しさはいっとき、そう長くは続かない、と解っていても飛び込んで夢中になってしまう美しいもの、ありますよね。たとえ偽りでも幻でも、その中で安らぎを覚えるならば、(その美しいものに)夢中になることに意味はあるように思います。

    それにしても、何が隠れているのでしょう?? すいわさんはおわかりでしょうか?

    • 山川 信一 より:

      これは無理でした。だって、今の何に当たるのかさえわからないのですから。無理を承知で聞いてみました。もちろん、私だってわからなかったでしょう。
      そうですね。花に夢中になることは一概に否定できませんね。同感です。

  3. すいわ より:

    「くたに」、知りませんでした。「苦胆」と書くのですね。だとするとリンドウかもしれません。竜胆も牡丹(芍薬)も薬効がありますが、竜胆は苦味が強いです。九谷焼の「くたに」は村の名前でしたか、でも、華やかな美しい焼き物ですよね。「くたに」から美しいものを連想するのかもしれませんね。

    • 山川 信一 より:

      なるほど、苦胆と竜胆では「胆」が共通していますからね。おまけに、薬効作用があり、苦い。しかし、古来決め手がなかったのは、牡丹の華やかさも捨て難かったからでしょう。竜胆は美しいけれど、どこか落ち着きがありますから。

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