《旅へのいざない》

こしのくにへまかりける時しら山を見てよめる みつね

きえはつるときしなけれはこしちなるしらやまのなはゆきにそありける (414)

消え果つる時し無ければ越路なる白山の名は雪にぞありける

「北陸地方に下った時白山を見て詠んだ 躬恒
消え果てる時が無いので北陸への道にある白山の名は雪であったのだった。」

「(時)し」は、強意の副助詞。「(無けれ)ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「(越路)なる」は、断定の助動詞「なり」の連体形。「(雪に)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(あり)ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。
北陸地方に下った時、冬ではないのにまだ雪に覆われている白山を見た。
この山の雪は一年中消え果てる時が無い。だから、北陸への途次にあるこの山の名前は白山と言うのだ。白山の「白」とは雪のことだったのだなあ。
季節は書いていないけれど、おそらくもう夏なのだろう。ところが、白山にはまだ雪が残っていて白く見えた。そこで、なぜこの山が白山と言うのか、その訳がわかったと言うのである。旅の楽しみはこうした発見にある。日常出会えない何かに出会い、感動することが旅の楽しさである。人はそれを求めて旅に出る。この歌は、そのことを一つの具体例で示している。その意味でこの歌は旅へのいざないである。

コメント

  1. まりりん より:

    屁理屈を言うと、北陸の白山は、現在では一年中積雪があるわけではなさそうですね。当時は万年雪だったでしょうか。
    前にも書いた気がしますが、心の持ちようで旅は何倍も楽しめますね。非日常の発見が、旅の醍醐味ということでしょうね。

    • 山川 信一 より:

      この歌は嘘を承知で詠んだのでしょう。つまり、旅を盛ったのです。考えてみれば、旅にはそういう一面もありますよね。「いやあ、驚いたのなんのって、・・・だったんだから」って。『伊勢物語』の第九段(三河の話と隅田川の話の間)に「富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白うふれり。 時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿子まだらに雪のふるらむ」という歌が出て来ます。この歌を踏まえてもう少し本当らしく作ったのかも知れませんね。

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