題しらす よみ人しらす
かきりなくおもふなみたにそほちぬるそてはかわかしあはむひまてに (401)
限なく思ふ涙に濡ちぬる袖は乾かじ逢はむ日までに
「限りなく思う涙にびしょ濡れになる袖は乾かないだろう。逢う日までに。」
「(濡ち)ぬる」は、完了の助動詞「ぬ」の連体形。「(乾か)じ」は打消推量の助動詞「じ」の終止形。ここで切れる。以下は倒置になっている。「(逢は)む」は、推量の助動詞「む」の連体形。
私はあなたを限りなく愛しているので、あなたとお別れすることが悲しくて、涙で袖がびしょ濡れです。この次にお逢いできるのはいつの日でしょうか。その日が来るまでこの袖が乾くことはないでしょう。だって、その日まで私は泣き続けるでしょうから。あなたはこの場でお泣きになった白玉を持ち帰るだけでしょうけど。
別れの悲しみを再び逢うまで涙で濡れた袖が乾かないほどだと表現する。これも誇張表現である。この二人が臆面もなくこうしたことが言い合へる関係であることがわかる。
この歌は前の歌の返歌とも取れる。憎い構成である。その場合、やはり二人は恋人同士と考える方がいいだろう。同性であっても異性であっても。恋とは、甘い悲しみの涙に自ら進んで溺れることでもある。
コメント
397、398番の歌のように、400番の歌の返歌を期待して前回のコメントは書きました。401番の歌、必ずしも対の返歌ではないのかもしれませんが、それならばそれで、編集の仕方が心憎い。
「貴方は綺麗な思い出を持ち帰ってそれで済むかもしれない、待つ身の私はまた貴方が来て下さるまで泣き暮らすのです」と拗ねて見せる。心を持ち帰った側は別れがこんなにも切ない、というポーズを取って見せる。お互いにそんなに間を置かずに会えると分かっていて、別れの寂しさを演じているのかもしれない、と思えてきました。「美しい別れ」を演出してお互いの気持ちを更に高めているかのようにも。
お互いに自分の方が悲しいと言い合っているみたいですね。こうした歌のやり取りも恋を楽しむための重要なアイテムだったのでしょう。まさに恋はプロセスに有りですね。最近の短歌ブームはそれに気が付いたこともあるのではないでしょうか?
これは前の歌の返歌で、セットで考えるのですね。
なるほど、白玉の涙を男性のものと捉えないと、男性の悲しみがどこにあるのか分からなくなると。あるいは、一緒に流した涙とも考えられますかね?そして、女性の方は涙が止まらず袖がびしょびしょに濡れる程に。この作者は、自分の方が想いが強いと多少の皮肉を込めているでしょうか。そうやって一層の強い思いを伝える?
女はこうしてわざと拗ねてみせます。男が自分の真意をちゃんと受け取ってくれるとわかっているからです。和歌は心を通わせるための重要なアイテムです。現代の男女もこうした繊細な心を見習いたいですね。恋は男と女が一緒に創って物語ですから。