《実態に即した歌》

もとやすのみこの七十の賀のうしろの屏風によみてかきける そせい法し

いにしへにありきあらすはしらねともちとせのためしきみにはしめむ (353)

古にありきあらずは知らねども千年の例し君に始めむ

「元康の親王の七十の賀の後ろの屏風に詠んで書いた  素性法師
昔に有ったか無かったかは知らないけれど、齢千年の例をあなたに始めよう。」

「古にありきあらず」は、名詞句。「(知ら)ねども」の「ね」は、打消の助動詞「ず」の已然形。「ども」は、逆接の接続助詞。「(始め)む」は、意志の助動詞「む」の終止形。
長寿千年の例が昔に有ったか無かったかは存じません。けれども、千年という長寿の例を私はあなたから始めようと思います。これからも、あなたを見守ってまいります。どうか長生きして私に見本を見せてください。」
この歌は、齢千年を既定ものとして前提にしていない。これからそれを実現しようと言う。言わば、実態に即した歌である。「君に始めむ」の「む」は、勧誘とも取れる。相手にそれを促すのである。ならば、もっと実態に即している。その意味で賀の歌としては、いささか毛色の違った歌になっている。しかし、やたらに大袈裟なことを言うよりも、かえって長寿を願う思いに誠意が感じられる。編者は、そこを評価したのではないか。

コメント

  1. すいわ より:

    前の貫之の歌に続き元康親王の七十歳のお祝い。「貫之殿はまた、美しい清々しい歌をお詠みになる、では私は、、」と、まるで寄せ書きのように素性法師もこの歌を屏風に書いたのではないでしょうか。心楽しいです。きっとお祝いの席も和やかなものだったのでしょう。
    心から、祝う相手の長寿を願っている。あなたが長寿の先駆けとなって下さい、皆、続きますから、と。

    • 山川 信一 より:

      きっと賀の宴はこんな雰囲気だったのでしょう。ただ、貫之も素性法師も、旧弊を打破しよう新しい和歌を作ろうという意気込みに満ちていたのではないでしょうか?

  2. まりりん より:

    この歌は、前の(352)と同じ時に詠まれたものですね。背景が何となく見えてきました。(私が)基礎知識が何もないことがバレてしまいますが(とうにバレておりますが、、)、身分の高い方のこういったお祝い事には親類縁者のみならず関係者や偉い方がたくさん招かれたのでしょうね。そういった公の場で、歌自慢の方々が競うように歌を詠んだ。そのような時、素直に心情を表現する、というよりは強烈に周りを意識してしまいそうです。そんな中で(中には歯の浮くような大袈裟なお世辞もあったかも知れません。)、実体に即して誠意が感じられるこの歌は却って際立ったのかも知れません。

    • 山川 信一 より:

      そのご意見に賛成します。すいわさんへのコメントにも書きましたが、言葉を飾り立てるだけで真のない歌を否定したいという意気込みが感じられます。

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