《秋を持ち帰る》

北山に僧正へんせうとたけかりにまかれりけるによめる そせい法し

もみちははそてにこきいれてもていてなむあきはかきりとみむひとのため(309)

紅葉葉は袖にこきいれて持て出でなむ秋は限りと見む人のため

「北山に僧正遍昭ときのこ狩りに行った時に詠んだ 素性法師
紅葉葉は袖に枝から摘み取って入れて持って出て行ってしまおう。秋はもう終わりだと思う人のために。」

「持て出でなむ」の「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形。「む」は、意志の助動詞「む」の終止形。ここで切れる。以下は倒置になっている。「見む」の「む」は、助動詞「む」の連体形で不確定を表す。
父である遍昭と北山にきのこ狩りに行った。北山は京都の北の方の山である。すると、そこにはまだ紅葉が残っていた。それを枝から丁寧に摘み取り、袖に入れて、都に持って帰ろう。都の人はみんな、もう秋はお終いだと思っているだろう。その人たちに見せるために。
作者は、一族総出できのこ狩りに出掛けた。大掛かりなので、みんなそれを知っている。それを知る者たちは、きのこの土産を期待しているに違いない、きのこをいっぱい採ってこようと思う。すると、思いがけず、北山にはまだ紅葉が残っているのを知る。北山ではまだ秋が終わっていなかったのだ。そこで、きのこだけでなくこの紅葉をお土産にしようと思う。秋が終わってがっかりしている人たちに見せて「秋はまだ、ほらこのとおりありますよ。」と驚かせてやりたいからだ。作者のサービス精神がうかがわれる。

コメント

  1. まりりん より:

    副題として  穏やかな休日  とでも付けたくなります。
    風の無い小春日和に、気の置けない内輪の人たちでの外出。背中には大きな籠を背負っています。景色を楽しみながら、たわいも無い会話を交わしながらきのこを摘んでいる和やかな光景に、楽しそうな笑い声が聞こえてきそうです。
    都ではとっくに紅葉は終わっているのに、北山にはまだ残っていた。やった、ラッキー!
    紅葉を袖に入れて持って帰るのは、無造作に籠に入れて葉っぱが破れたりしないように、という気遣いでしょうか。これもまたサービス精神。
    この日お土産を頂いた人たちは、晩ご飯はきのこ鍋かしら。紅葉は水鉢に浮かべて、もう一度秋を楽しみます。(水鉢に浮かべた紅葉が)萎れませんように。

    • 山川 信一 より:

      きのこご飯を食べながら、紅葉は水鉢に浮かべて、もう一度秋を楽しんでいるのですね。歌の背景がありありと目に浮かんできます。
      素性法師は、父である僧正遍昭に出家させれられたので、複雑な思いがあったにせよ、一応は仲良くやっていたのでしょう。そんな父こ関係も垣間見えます。

  2. すいわ より:

    「さぁ、きのこ狩りに出掛けて来ます、楽しみに待っていて下さいね」と上機嫌で出発。首尾良くお目当ての物、見つけられたのでしょう。香りと味を堪能する家族の顔を思い浮かべながらの帰り道は足取りも軽いことでしょう。成果が無かったら足元を気にして紅葉に気付けなかったかもしれません。寒さが迫っている北山から持ち帰る、もう一つの色鮮やかな秋の名残のお土産。詠み手の心映えに木漏れ日のような温かさを感じます。

    茸のことを「たけ」と言うのですね。「松茸、椎茸」の「タケ」。「竹」とは全く違う植物だけれど、成長の著しい特性の植物をそう呼んだのかしらと思いました。

    • 山川 信一 より:

      こんなきのこ狩りなら、一緒に行ってみたくなりますね。作者は、温かな心を持った人だったのでしょう。それに、少しいたずら心もあったような気もします。「そうそう、もう一つお土産があるんですよ。」と言いながら、おもむろに袖に入れた紅葉を取り出す様が目に浮かびます。
      語源を証明するのは難しいのですが、母語の覇者には共通の語感が確かにありますね。「丈」「長」「竹」「岳」「茸」「猛る」には、共通した何かを感じます。生命力の強さ・ある種の勢いでしょうか。

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