《思いの落差》

寛平御時きさいの宮の歌合のうた 大江千里

うゑしときはなまちとほにありしきくうつろふあきにあはむとやみし (271)

植ゑし時花待ち遠にありし菊移ろふ秋に逢はむとや見し

「宇多天皇の御代、后の宮の歌合の歌  大江千里
植えた時花が咲くのを待ち遠しく思った菊を色が変わり衰える秋に逢うだろうと思って見たか。」

「植ゑし」と「ありし」と「見し」の「し」は、過去の経験を表す助動詞の連体形。「逢はむとや」の「む」は、推量の助動詞「む」の終止形。「と」は、格助詞で引用を表す。「や」は、係助詞で反語を表し、係り結びとして働き、文末を連体形にする。
この菊を植えた時は、咲くのを今か今かと待ち遠しく思っていた。ところが、秋が深まると、菊はすっかり色を変え衰えてしまった。植えた時に、こんな秋に出逢うなどと思って見たか、今の姿を想像したか。いや、そんなことはなかった。
秋が深まり、色が変わり衰えてしまった菊を見た時の思いを詠もうとする。しかし、その思いは、「失望」とも「残念」とも、一言で言い表せるようなものではない。そこで、過去の思いを遡ることで現在の思いを想像させようとした。つまり、植えた時、咲くのを待ち遠しく思っていた時と現在との思いの落差を感じさせることによってである。普通、人は栄えある未来を想像しがちである。しかし、栄えがあれば衰えもある。なのに、そこまでは想像しない。衰えた現実を見て初めてそれと知るのみである。この心理を手掛かりにしている。
「植ゑし」と「ありし」と「見し」の過去の助動詞「き(し)」を繰り返しは、過去と現在を対照させるだけでなく、この歌をリズミカルにする効果も上げている。

コメント

  1. すいわ より:

    心待ちで手を伸ばすのと、掌から零れ落ちて行くのと、思いの強さを秤にかけることはできないけれど、きっと、開花を求める熱量の上昇する速度より喪失で落胆した心の急降下する速度の方が速いのでしょうね。「痛み」がよりその存在の価値を高めています。開花した一番美しい時の描写が無いのに、手に触れられない、まるでホログラム像の菊を見ているような錯覚を覚えます。

    • 山川 信一 より:

      開花した時の描写が無いのは、初めと終わりを対照するために、夾雑物として廃したのでしょう。しかし、ホログラムの像として思い浮かぶことはありますね。

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