これさたのみこの家の歌合によめる 壬生忠岑
あきのよのつゆをはつゆとおきなからかりのなみたやのへをそむらむ (258)
秋の夜の露をば露と置きながら雁の涙や野辺染むらむ
「是貞の親王の家の歌合で詠んだ 壬生忠岑
秋の夜の露は露として置いて、雁の涙が野辺を染めているのだろうか。」
「置きながら」の「ながら」は、接続助詞で、状態が変わらない「そのままで」の意を表す。「涙や」の「や」は、係助詞で疑問を表し、係り結びとして働き、文末を連体形にする。「染むらむ」の「らむ」は、現在推量の助動詞の連体形。
秋の夜には、野辺一面に露が降りている。しかし、露は露で、木の葉を染め上げるものではなく、露のままではないか。木の葉を真っ赤染め上げているのは、雁の涙ではないか。なぜなら、涙は血の色をしているのだから。
敏行の歌に対して、忠岑が反論している。敏行は、木の葉を様々な色に染め上げているは白露だと決めつけているけれど、その前提がして間違っているのではないか。安易に決めつけるべきではない。色の無い露にあれ程の色が出せるはずがないではないか。あれは、露が降り寒くて鳴いている雁の涙が染めているのではないだろうか。だからこそ、あれ程真っ赤に染まるのだ。そう考えれば、ある程度納得が行く。もちろん、そうでないかも知れない。しかし、自然の驚異への感動は、自分の歌の方が正確に捉えている。物事はもう一歩踏み込んで考える必要があると忠岑は言いたいのだろう。
コメント
「敏行の歌に対して、忠岑が反論」、これを「歌」の形でしているところがそもそもすごい。しかもその場で。たった三十一文字で明確に意思を伝え合うのですね。
「雁の涙が野辺を染める」、これだって本来なら涙が無色透明である事はわかっている。でも、寒空を飛ぶ雁の心情を汲んで野に置く露と落涙の違いを拾い上げる。自然を見つめる目の精細さ、見習いたいです。
さて、歌合わせではどちらに軍配が上がったのでしょう。二つの歌をここに並べ置いて、その優劣を改めて読み手に求める貫之の編集もさすがですね。